名前を呼ばないで 01




午後のきつい陽の光りが、燦々と僕の頭上に輝く。
私立の有名な高校の学生服を身に纏った僕は、うっすらと汗ばんだカッターシャツをぱたぱたさせながら、駅へと向かっていた。
ちらほらと振り返る人の視線に柳眉を顰めながら、僕は静かに溜息を吐いた。


――人に見られるのって、なんかキモチワルイ……。アイツはどうなんだろ…。


ふと脳裏を過ぎった僕とまったく同じ顔をしたアイツ。
そのくせ、僕よりも頭も運動神経も性格だって格段に良くて、いつも比べられてはうんざりだ。
僕に近付いてくる人ですら、アイツに似た顔が拝みたいだけで僕を必要としてくれているわけじゃない。
暗い思考に耽りそうになるのに舌打ちして顔を上げると、目の前の男と目が合ってしまった。
慌てて逸らそうにも逸らせなかったのは、彼がM校のあの有名な月森先輩だったからだ。
モデル並のプロポーションで、切れ長の目にすっと通った鼻梁。素っ気無い態度がまたいいんだと、怜悧・薄氷の麗人とさえ評されている。
だけど、今僕の前に立っている彼からは怜悧という印象もはたまた薄氷という印象も見受けられない。
そのわけは彼の口許に浮かんだ笑みのせいだった。
たったそれだけなのに、何故かドキリと心臓が高鳴った。
視線はまだ逸らされていない。
月森先輩が1歩僕に近付いてきた。


「ちょっと話さないか?」
「えぇ?」


あの月森先輩が、学校も違う、まして話した事もない僕になんの用だろう。
長身の彼を見つめるには顔を上げなければいけないわけで、そうすると彼が噴出するのがわかった。
きっと困り果てた僕の顔を見たのだろう。


「話するだけだ。時間はそんなに取らせないから」
「い、いいですけど…」
「じゃあ、向こうの喫茶店に行こう」


そう言って月森先輩が歩き出したのは、お洒落なこじんまりした喫茶店だった。
カランカランと古風なベルが鳴り、若い店員さんが声を掛けてきた。
メニューも見ずに適当に注文する彼をぼーっと見つめて、ふと緩められた首元に視線をやってしまった。
カッターシャツの首元を絞めるネクタイが緩められ、その隙間から浅黒い肌が見える。 店内は冷房が効いているが、入ったばっかりの僕たちは外の熱にやられていまだ汗が浮く。
彼の首元を伝う汗が、ゆっくりと鎖骨に滑り落ちていく。
ごくりと喉が鳴る。


――はっ、いけないいけない。つい見惚れちゃった。


ふるふると頭を振って危ない妄想を頭の中から追い出す。
月森先輩がどうしたんだと顔を覗き込んでいるが、なんでもないと首を振って答えた。
まさか、先輩の体に欲情しましたなんて、言えるはずがない。
そういう――男の人しか好きになれないという性癖に僕が気付いたのは1年前で、それでどうしようもなくてアイツに相談したら、僕もそうなんだ、とけろっと言ってた。
つまり2人揃って女の人に興味ないってやつで、ううーんと頭を抱えていた僕と違ってアイツはその時には、その、あの、しょ…初体験、とやらを済ましていたそうだ。
僕はまだ…というか、本当に好きになった人じゃないとしたくないと思ってるからいまだ経験はない。
ちらりと月森先輩の顔を窺ってほうと感嘆を漏らす。
やっぱり、麗人というのに違いはなさそうだ。さっき浮かべていた笑みが引っ込み、今では怜悧・薄氷という雰囲気も出てきた。
さっき感じた胸の高鳴りといい、今の感嘆の溜息といい、ほんと僕はどうかしてるかも。
高嶺の花に、叶わぬ恋心を抱いてしまいそうになっているとは……。


「ご注文のアイスティーと当店お勧めのパフェでございます」


明るい声でアイスティーとパフェがテーブルに置かれた。それも2セットずつ。


「あの…?」
「俺の奢りだ、気にするな」
「あ、りがとうございます」


なんかこう、月森先輩にそう言われると断る気がおきなくて素直にパフェを口に含んだ。
元来、甘い物好きなためどんどん中身が減っていく。
左手に邪魔なポッキーを手に取りどこに置いておこうか考えていると、頭上からくすくすと笑い声が聞こえてきた。


「よく食べるな」
「好きですから」


奢ってもらって気を良くした僕は、笑顔でそう答えていた。先輩の目がさらに細まる。
綺麗にパフェを平らげた後口を拭った僕は、先輩が食べ終わるのを待って、話し掛けた。


「あの、僕になんの用なんですか?」
「あ?ああ。忘れてた」


急に姿勢を正し、まっすぐに僕を見つめている。


「お前に惚れたんだ。俺と付き合ってくれないか?」


先輩の視線をまっすぐ受け止める勇気がなくてアイスティーを口に運んでいた僕は、あやうく変な所に流し込む所だった。
ごほごほっと噎せこむ僕に、大丈夫かと問い掛けてくる。


「じょ、冗談ですよね?」


ついさっき、見惚れていたのがバレたかと冷や汗が流れる。
叶わぬ恋だと自覚したばかりなのにタイミングがよすぎる。
そのタイミングのよさに、先輩が僕をからかっているんだと勝手に判断した。
だが、その言葉に彼がむっと口をへの字に曲げた。


「冗談なもんか。こう見えても告るの初めてなんだぜ。わざわざ嘘なんて吐くかよ」


――だって、会ったの今日が初めてだよ?


と紡ごうとしたが、先に先輩が口を開いた。


「一目惚れしたんだ。先週、定期忘れた上に雨にまで降られた俺に、それまでの切符と傘を奢ってくれただろ?」
「え……?」
「駅に着くまでの短い時間だったけどさ、お前と話してて楽しかったし、その…可愛いし、さ。 お前も満更じゃなかったみたいだし、強気でいけばいけるかなって思ったんだよ」


――月森先輩は誰の事を話しているんだ?


僕は先輩と話したのは今日が初めてだし。先輩に切符も傘も奢ってない。


――誰とだって?僕と間違えるなんて、アイツしかいないじゃないか。


さっと顔が青褪める。
けれど先輩は気付かない。
僕の惚れた顔で、笑顔で、僕じゃない名前を呟く。


「どう、雪。俺と付き合ってみないか?」


僕は雪という名前じゃない。
雪と同じ顔してるけど、まったく正反対のタイプで弟の冬だ。
そう告げた時、先輩はどうするだろうか。
きっと謝罪して僕との関係はそれっきりだろう。
哀しい。
だから……。


「はい」


先輩が好きそうな"雪"の顔に笑みを貼り付けて、にっこり頷いた。
絶対に後悔するってわかっているのに、先輩を騙してしまった。
微かに痛む胸を無視して、僕は終始笑顔のままでいた。






月森先輩に嘘を吐いたまま既に1週間が過ぎた。
雪にもなにも言ってはいない。
先輩とは学校も違うし、部活もバイトもしていない僕と雪が街で先輩と鉢合わせるなんて可能性は格段に低い。
けれど、後ろめたいのは本当で、今日もデートだという僕を見送りしてくれる雪に合わせる顔がない。
玄関で靴を履きながらその後ろで雪が笑顔でいる。


「とうとう、冬にも春が来たね〜。ね、ね。どんな人?」
「―――かっこいい人だよ」
「そんだけ?ま、いーや。今度家に連れてきなよ」


一瞬目の前が真っ白に染まる。
雪に悪気はないだろうけど、すべてを見透かされているようなそんな気分になり、曖昧に誤魔化して急いで家を出た。
先輩を家に連れて行く事なんて一生ない。雪をどう紹介していいかわからないからだ。
先輩と会って1週間も経ったが、本当の事を喋ってはいないし、先輩は僕を「雪」と呼ぶ。
他人を呼ぶ先輩にその度に笑顔で答え、つきんつきんと痛む胸を押さえつける。
この付き合いが長く続かない事はなんとなくわかっていた。きっとひどい恋になる事すらどことなく予感していた。






待ち合わせした場所に時間通りに来ても、月森先輩はまだ来ていなかった。
壁に寄りかかるようにして時間を潰す。


――今日…言ってみようかな。
本当は僕、雪じゃなくてその弟の冬なんです、って…。


そう思ったけれど、そう言った時の先輩の顔を思い浮かべて諦めた。
彼女とか親友とかにしか肩の力を抜く事を許さない先輩が、無表情な怜悧な表情を僕に向けて言うのだ。


――雪じゃないやつに、興味なんてない。


と。
今日の朝だって、僕のために雪が選んでくれた服を着ようかどうか迷ったものだ。
雪が選んだのはノースリーブにハーフズボンという夏にぴったりのきゃぴきゃぴしたちょっと女の子らしい格好で、雪が着たらきっと似合うだろうなっていう衣装だった。
でも雪にはなりたくなくて、箪笥の中に無造作に並べてあったポロシャツとズボンを引っ張り出した。
どこにでもいそうで、だからこそ街中に埋没してしまいそうな装いだった。
遣る瀬無さにぼうっと視線を彷徨わせていると、女性の視線を一身に集める先輩がいた。
僕に気付くと笑みを零して近づいてきた。


「待ったか?」
「いえ。僕も今来たばっかりだし」
「そうか。じゃあ行くか」


今日は映画を見に行く予定だった。
つい最近公開されたばかりの新作の映画だ。
海賊物で全作から人気が絶えず、予告を見てとても見たいと思った映画。それを知った先輩が、さり気なさを装って誘ってくれたのだ。


――チケット2枚貰ったから、見に行くか?


え?ときょとんとする僕の頭を撫でて嬉しそうに先輩が笑う。


――雪と、映画見に行きたいなって思ってさ。どうだ?


どうだ?と聞いておきながら、受け取ったチケットには日時が指定されていて、その日その時間を逃したら終わり、という限定チケットだったのだ。
すぐに頷いたけれど、先輩の言葉を思い出して沈んだ。
"雪と"映画に行きたい、と先輩は言ったんだ。
雪じゃない僕が行って、先輩は楽しいだろうかとちらりと先輩を窺う。


「どうした?」


先輩と目が合って、慌ててなんでもないと逸らした。
映画館は休日という事もあって家族連れやカップルでいっぱいだった。
僕たちはポップコーンと飲み物を持って1番大きなシアターへと入った。公開したばかりとあって客席はほとんど埋まっていた。
新作の映画は見所が満載で前回よりもさらに進歩した、手に汗を握る迫力あるものだった。時折、海賊の船長のボケが面白くてくすくすと笑った。
上映の終わった館内に薄暗く室内灯が点り、観客がまばらに席を立つ。僕も席を立とうとしたが、先輩に手を引かれ席に留まるしかない。
いちゃついたカップル1組と船長がどうのこうのと騒いでいる女の子グループしかいなくなった館内で、隣の席の先輩が身を乗り出して近づいてきた。


「先輩?」


どうしたんですか、と続けようとした言葉はだけど続かなかった。


――え……?


しっとりと濡れた感触が唇にあり、眼前に先輩の整った顔が見える。
キス、してる。
そう思った時、先輩の舌が僕の中に入ってきた。


「…ンっ……ぁ、は…」


初めての事にぎゅっと目を瞑って甘受する。
くちゅっと濡れた音に耳を塞ぎたくなるけれど、僕の手は先輩の背中から離れようとはしなかった。
やがてどちらのものかわからない雫が唇の端を流れ落ちた頃、ようやく先輩が離れた。
整わぬ息に肩を上下させていると、先輩が苛立ったように僕の手を引きながら席を立った。
まだ館内にいた女の子グループの1人が隣の子の袖を引っ張って先輩を指差しながら頬を染めている。僕の顔も真っ赤だった。


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