氷の檻 01




「別れよう」


駅前にある少し古風な喫茶店で寛いでいる時に、俺の目の前の男、蘇芳慎(まこと)がそう言った。
大学のレポート用紙に目を落としていた俺は、その声が心に染みていくにつれ、鉛筆を握っている手が震えてくるのに気付いた。
それを必死に押さえつけて蘇芳に心の内を読まれないように、いかにも仕方なさそうな笑顔を作った。


「……そうだな。もう卒業だし、いつまでも一緒にいようなって言う年でもないもんな」


自分の放った言葉が、尖った氷の破片のように心に突き刺さる。
本当は平気なわけじゃない。今にもなぜだ!?と喚き散らしたい程に心の中は荒れ狂っている。 それでもその言葉が言えないのは、既に蘇芳の心が俺に向いていない事を知っているから。
好きだからこそ言えない言葉もある。相手を最優先に考え、自分の事を2の次と考えてしまう俺は、蘇芳の重荷にはなりたくない。
だから俺は笑顔で嘘を吐く。少し不恰好な笑顔に映るかもしれないが、元が無愛想な俺だ。気にも留めないだろう。
思った通り蘇芳は俺の顔を眺めてはいるが、すぐに興味を失くしたようにカップを口に運んでいる。俺もレポート用紙に視線を落とす。 だけど、なにを書こうとしていたかなんて思い出せる状況じゃない。
がたんっ、と一際大きな音を立てて椅子から立ち上がった蘇芳が、伝票を持ってレジへと向かっていった。
無表情だ。
最近の蘇芳は、そういう表情をする事が多かった。友人に囲まれている時はそうでもない。俺と2人きりの時だけ。 なにも言わない蘇芳から無理矢理聞き出そうなんて勇気は俺にはない。
蘇芳はなにも言わず、一瞥さえせずに喫茶店から出ていった。
残った俺も、柑橘系の香りを放つアールグレイを飲み干し喫茶店を出た。伝票を持っていったから、蘇芳の奢りだろう。
自然と足取りが重くなる。
高いビルに囲まれ、ほんの少ししか見えない空を眺めてぽつりと呟いた。


「もう3年か……」






俺が蘇芳と出会ったのは大学2年の春で、ちょうど同じ講座を取っていて、空いている俺の隣に座ったのが蘇芳だった。
鍛えられた身体と陽に焼けた肌、誰とでもすぐに打ち解けられる天賦の才のようなものが蘇芳にはあった。俺とは真逆の存在。 俺はといえば、軟弱な身体だし外で遊ぶよりも図書室に篭もる事が多かったせいか女みたいに白い肌。その上、無表情で無愛想だ。
そんな俺をどう思ったのか、その日以来度々遊びに誘ったり飲みに連れて行ってくれたりした。
その関係が崩れたのが出会ってから3ヶ月目の事だった。
夜中にいきなりやって来て、蘇芳が飲もうと言い出した。他愛無い話をして軽く酔いが回ってきた頃、蘇芳に押し倒されたんだと思う。なにせ記憶が曖昧なのだ。
気がついたら翌日の昼前で、痛む腰と身体のあちこちに散った鬱血の跡でなにが起こったかを理解した。でも蘇芳を責める気にはなれなかった。 俺は蘇芳を好いていたのだから。
目覚めた蘇芳はなにも言わずにシャワーだけを浴びて帰って行った。昨夜の記憶は曖昧だったからもしかして誘ったのは俺だったのかも、とさえ思った。 酔った勢いで俺を抱いたけど、気持ち悪かったのかもしれない。
1人悶々として、その翌日は発熱と顔を合わせられない気持ちとで大学を休んだ。
けれどそれも杞憂だったようだ。
その日のうちに蘇芳がもう1度やって来た。今度は頭痛薬を持って。その事に俺は舞い上がった。 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる蘇芳は俺の事を嫌ってもいないし、気持ち悪がってもいない様子だった。
熱が引いてからも前のように接してくれていたし、週末は一緒に過ごして時折セックスだってしてた。
だが長くは続かなかった。
いつの頃からか蘇芳から女物の甘ったるい香水の匂いがするようになった。会う時間だって減った。それに伴ってセックスする時間だって然り、だ。 俺がつけた覚えのない背中の掻き傷は見て見ぬフリをした。大学内でも、女と連れ歩く姿をよく見掛けたし、外で女と会っているなんて噂も聞いた。
それでも問い詰める事ができなかった。問い詰めてどうするつもりなのか分からなかった。 放っておけばせめて大学卒業までは続くかもしれない関係を自らの手で壊すのが怖かったのだ。
それも今日で終わり。蘇芳は俺の元から去って行ったのだから。






別れて数日はなにをする気にもなれず、怠惰的に暮らした。 1人暮らしのため自炊はするのだが、腹を満たす行為ですら億劫で、作り置いておいた前の晩のご飯を温めたり、コンビニで買った栄養の偏った食事やビールで乗り切った。
もちろん、そのたった数日の間に軽く3kgは落ちた。
さすがにれではいけないと頭の隅で警報機が鳴った。のろのろと散らかった部屋を片付け、溜まった洗濯物や食器を片して、近くのコンビニで求人情報誌を買った。 ぺらぺらと捲って適当に電話を掛け、面接の日時を取り付ける。念のため、もう2、3箇所連絡を入れておく。
そうしてふと、情報誌から目を離すと道の向こうに蘇芳がいた。何故か俺の方を睨むように見ていた。その手は傍らにしなだれかかるように立っている女の腰に絡みついている。 端からみれば、人目も憚る事なく堂々といちゃつくカップルのように見えるだろう。
俺は地面から手を伸ばした地縛霊が足首を掴んでいるかのように突っ立ったままだった。
目の前を音を立てて通り過ぎた大型トラックの影で、やっと自分を取り戻した俺は縺れそうになる足を必死に動かしてその場を立ち去ろうとした。
けれど――――


「…っ!」


見てはいけないものを見てしまった。
蘇芳はあろうことか俺の目の前で、まるで見せ付けるかのように女にキスしたのだ。
女の細い腰を引き寄せ、空いている片手を頬に添える。啄ばむような軽いキスではなく、すべてを奪うような深いキスだ。 舌を差し出して絡ませ、角度を変えながら口付けている。女の方は頬を高潮させ、うっすらと笑みの形に目を細めている。両手はしっかりと背中に回されている。
周囲から息を呑む音と、囃し立てるような口笛が発せられる。俺は力いっぱい顔を背け、振り返る事なくその場を後にした。
心臓が痛いくらいに速く脈打っている。今にも飛び出していきそうなそれは、時間が経つにつれ次第に落ち着いていった。
しなだれかかるように蘇芳にもたれかかっていた女の顔が浮かぶ。極上の男を手に入れ、それを手放さないように必死に媚を売っているような感じの女だ。 あんな女のどこがいいのか。
そこまで考えてはっとする。俺にそんな事を言う権利はない。蘇芳がどこで誰とどんな事をしようと俺には関係ない、口出しできないのだ。 ようやく怠惰的な生活から開放されたと思ったのに、以前と同様になにもする気にはなれなかった。
無性に部屋中のものをすべて壊してしまいたい衝動に駆られた。 それを実行すべく立ち上がった俺だったが、時を同じくして鳴り響いたチャイムの音に、苛立ちを隠しきれないながらも扉を開けた。


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