氷の檻 02




がちゃ、という優しい音ではなく、ばんっという叩きつけるような音を立てて開けた扉の向こうには、つい先程見掛けたままの格好をしている蘇芳がいた。 相変わらず眼光は鋭く、見下ろすように睨み付けている。
蘇芳が何故ここに?聞きたい事はあったのに、口は主を裏切って冷たく言い放つ。


「なに?」


言外に、別れたのになんの用だとほのめかす。
蘇芳はぴくりと眉を動かしただけでなにも言わず、そのまま俺の肩を通り越して奥の部屋を覗いている。
大丈夫。部屋は散らかっていない。怠惰的な生活を送っていた事を知られて惨めな思いをする事はない。
再び視線を俺に戻した蘇芳はおもむろに口を開いた。


「話があるんだ。部屋に入れろよ」
「……」


お願いではなく最初から俺が頷くと知っていての言葉。その言葉通り、入れないように玄関に陣取っていた俺は、静かにその場を退いた。
俺は台所に入り、客用の湯飲み茶碗を用意してお茶を沸かす。 奥の部屋に案内すらされていない蘇芳だが勝手知ったる他人の家のごとく、ちゃっかり俺のソファーで寛いでいる。
普通、新しい恋人もできたのに、わざわざ元恋人の所で寛いだりするだろうか?と疑問に思ったが、 ソファーの背に頭をもたれかけている蘇芳がほっと溜息を吐いているのを見て、 あの女に勝った、と思った。恋人がいるのにわざわざ俺の家にやってきてまで寛ぐというのはつまり、今の彼女といては疲れるという事なのだろう。
たったそれだけの事に安堵する俺と、まだ未練がましく蘇芳に縋っているのかと自分自身を嘲笑う俺がいる。
用意できたお茶を持って、俺はソファーに座る蘇芳の向かいの床に腰を下ろした。 なにか言いたげに目を細めた蘇芳だったが結局なにも言わず俺の体を嘗め回すように視線を這わせた。
居心地の悪さを感じた俺は、尋ねてきた嬉しさ反面、早く帰ってくれという願いでいっぱいだった。


「…話ってなに?」


聞いて後悔した。品定めをするように俺の体を嘗め回していた蘇芳の瞳が、剣呑な空気が孕んだからだ。
また、だ。
俺を見る時の蘇芳は、どこか疑わしい視線で俺を射る。それはなにを疑っているのかわからないが、俺が傷つかないとでも思っているのだろうか。 愛しい人に疑われる事は、俺にとって耐えられない事なのに。


「お前、今日俺たちと会ったよな?」


わざと俺たちという言葉を強調する。まるでお前の入り込む余地は1mmだってないんだ、とでもいうような蘇芳の口ぶりに泣き出しそうになった。 蛇に睨まれた蛙のようにこくりと頷いた。


「なぁ、それ見てどう思った?」
「……どうって?」
「そのまんまだよ」
「別に。俺には関係ない事だし」


そう。別れた俺にはなにも言う事ができない。
からからになった喉を潤そうとお茶に伸ばした手を強く掴まれる。
いつの間にか俺の側に蘇芳が立っていた。睨みつける事もせず、ただ無表情で立っているだけなのに、震えが起こり無意識に尻で後ずさった。


「なぁ、夾(きょう)。俺たちは別れたけど、別にする事が罪だという事はないよな?ならやろうか?」
「な、に……?」
「セックス」


ひゅ、と息を飲み込む。
蘇芳から吐き出された言葉の真意を測りかねて、呆然と見上げる。蘇芳は無表情ではなくシニカルな笑みを浮かべていた。
整った顔が近づいてきて、薄く開いた俺の唇に蘇芳のそれが重なる。昼間見た女との濃厚なキスシーンが頭の中を過ぎり、必死になって蘇芳の胸を押し戻そうとする。 けれど俺の抵抗を力で捻じ伏せて俺を後ろに倒した。乱暴なはずの行為だが何故か俺が頭を打たないように後頭部に手を添えている。


「は、ぁ……んん…」


耐え切れなくなった涙が一筋、俺の頬を濡らす。蘇芳もそれに気付いたのだろう。唇を離して顔を下にずらす。
性急に俺の服を剥ぎ取り、跡を残すようにきつく吸っては舌を這わせていく。


「や、やだっ!やめ……あっ」


やんわりと主張し始めた胸の突起を、転がすように舐められる。それだけで、下肢に熱が集まるのがわかった。その奥がむずむずと疼きだす。 けれどこのまま流されていては絶対に諦める事ができないとわかっていたから、必死になって抵抗を繰り返す。
胸を集中的に愛撫する蘇芳の頭を力の入らない手で押し返そうとする。


「…す、おう…ぁっ……蘇芳ッ!!」


既に俺のジーパンと下着までをも脱がし、すっかり硬くなったそれを口に含んだ蘇芳が目だけで『なに?』と先を促す。
弱々しく首を振り、小さな声でやめてと呟く。


「っく、やめて、よ…なんで、こんな事するの…?」
「っ、なんでだと!?」


俺のそれから口を離した蘇芳が、苛立ちも露に俺を怒鳴りつける。ひっ、と震え上がる体を抱き寄せて、守るように自身を掻き抱いた。


「お前なんで俺がこんな事するのか本当にわからないのか?」
「…っ、怒っているのか?」
「ああ」


俺に対して怒る事といったら、あのキスシーンを見られた事だろう。


「俺が…邪魔したからか?」
「は?」
「俺がお前のデートを邪魔したからか?キ、キスしてるのを偶然見ただけだったけど、俺とはもうこれ以上関わりたくないだろう?」


だからわざと見せ付けるようなキスをしたのだ。俺がばかな考えを巡らせてヨリを戻そうなんて言わないように。
そんな事、どんなに思っていても決して口には出さないのに…。どうして別れてからも俺を1度として信じようとはしてくれないのだろうか。
哀しくて胸が痞(つか)えたような息苦しさを覚えた俺は、目の前に覆い被さる蘇芳の顔を見てどきっとした。
まるで苦悶と歓喜をごちゃ混ぜにしたような顔だった。
なぜそんな表情をするのか分からず、ただ俺は蘇芳の言葉を待つばかりだった。
蘇芳は気まずそうに顔を背け、ようやく重い口を開いた。


「あれは……あの女は、デートの相手でもなければ彼女でもなんでもねぇよ」
「え――?」
「だから俺は彼女なんて作ったつもりはない」
「だ、だって……」
「落ち着けよ」


先程まで俺の体を撫で回していた大きな手が、俺を抱きこんだ。その手は不思議なくらいに恐怖感を与えず、逆に何故か安心感をもたらす。
蘇芳は俺の肩に顎を乗せ、ふぅと小さな溜息を吐いた。息が耳にかかり、体がぴくりと反応する。


「蘇芳」
「ん……」
「離れてくれないか?」


途端、俺の背に回った蘇芳の腕に力が入り、それが無理だと悟る。


「す……」
「夾。お前まだ俺の事好きか?」
「!?」


一瞬、呼吸の仕方を忘れたと思った。
蘇芳は何故そんな事を聞くのだろうか?俺はなんと答えるべきなのだろうか?yesと言えば未来は変わるのか?noと言えば……
そんなくだらない考えが頭の中を駆け巡る。
迷惑かもしれない。本当は俺の事なんて最初から好きじゃなかったのかもしれない。そう思いながらも、小さく頷く事で、俺は自分の気持ちを吐露した。
蘇芳の反応を見るのが怖くてぎゅっと目を瞑っていた俺は、唇に感じる生暖かい感触に、え?と驚愕に目を見開いた。その先には、心底嬉しそうな顔をした蘇芳がいる。


「蘇芳?」
「ん?」
「なんでそんな顔してるんだ?俺がいたら迷惑だろう?」
「なんでお前がいたら迷惑なんだよ」
「だってお前彼女いるだろ」
「あれは彼女なんかじゃないって言ってるだろ」
「でも……」


この言葉を言うのは今でも嫌だ。でも――


「でも……別れただろ」


蘇芳の眉間に皴が刻まれる。だが俺に対してなにかを思っているようではないらしい。 自分自身を責めるかのような表情をした後に、ぐいっと俺の顔を捕まえて引き寄せ、今までにないくらい強引で激しいキスをくれた。
吐息までをも奪うようなキスをした後には、透明な銀の糸しか残らなかった。
その後でぎゅっと抱きしめた俺の耳元で小さくごめんと呟いた。


「俺、お前の事試していたんだ」
「試す?」
「お前1度も俺に好きだって言った事なかっただろ?」


確かにそうだった。いつも好きだと言うのは蘇芳で俺はただ分からない程度に頷くだけだ。 本当は、俺も、とか、愛してるなんて言いたいけれど、勇気が出せないでいた。感情を素直に表現する事が難しい俺は、蘇芳のいない所で1人静かに呟くだけだ。


「だから不安だったんだ。本当に俺の事を好きなのかって。最初にお前を抱いた時は後悔したんだ。酔ってた所を強姦みたいに犯ったし。 それでもお前は態度を変えなかったからお前も俺の事を好きなんだと思ってた。 けど、どれだけ抱いても、一緒にいてもお前の口から好きだなんて言葉は聞けなかったから、俺はお前の優しさの上に胡坐を掻いているような気になって、 お前の気持ちを探るような真似をしたんだ。女と出掛けたり、イチャついたり。なのにお前、なにも言わなかっただろ?さすがに俺だってヘコんださ。 ばかみたいに悩んで出した結論が別れる事だった」
「……」
「距離を置けばお前の方から、ヨリを戻したいとか、一言でも会いたいと言うと思ってた。お前の性格を考えたらすぐにそんな事あるわけないって分かってたのにな。 いつまで経ってもにじり寄ってこないお前に焦れて、女引っ掛けたのが今日だった。お前の前で女とキスしたらどんな反応が返ってくるか試したくてしたんだ。けど間違いだった。 お前をあんなに傷つけるつもりはなかったんだ。」
「俺が傷ついた?」
「ああ。顔面蒼白で今にも倒れそうだった。一瞬で後悔したさ。だからこうやって話しに来たんだよ」


なのにお前ときたら俺には関係ないなんて言うしな、と苦笑いして頭を掻いた。
ぽかんとした表情のまま呆然としていた俺は、けれどそれならもしかして……と期待に弾む胸を押さえて蘇芳に尋ねた。


「蘇芳、俺の事本当に好きか?」


一瞬、きょとんとした表情を見せた蘇芳だったがにんまりと顔中に笑みを浮かべて力強く頷いた。


「お前も俺の事好きだろ」


問われて逡巡した後に、首を縦に振った。
けれどすぐさま、蘇芳が注文をつける。


「口で言えよ」
「…………好き、だよ。…蘇芳が好きだ」


初めて蘇芳の前で言う言葉は、照れくさくてけれどとても心が軽くなる言葉だった。溜まっていたしこりが急になくなったように、呼吸がしやすい。
まるで今告白し合った雰囲気に、まず始めに蘇芳が噴出した。それにつられるように俺も笑いを堪えられなくてついには噴出した。
お互い、離れていた時間を取り戻すかのようにキスし合い、抱き合った。まですべてを隙間なく埋めてくれる蘇芳の愛撫に体も心も打ち震えた。
見合わせた顔におでこをくっつけ、誰からともなく囁いた。


「愛してる」


ありふれているようで、耳慣れない言葉にうっとりと感じ入りながら俺は静かに瞼を閉じた。
その後に降り注ぐのはキスの嵐か、それとも愛の嵐か……。


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