氷と火の恋 01




俺と夾との出会いは実にあっけないものだった。大学の授業でたまたま隣にいたのが夾だった、ただそれだけだ。
それでも初めて見た夾には男の俺がはっとするなにかがあった。男のくせしていやに白い肌とか、涼しげな目元、細い首筋。 まるで狼の群れの中に迷い込んだ子羊みたいに見えた。
眼鏡をかけ、中学、高校時代は学級委員長や生徒会役員などをやっていただろうという俺の予想を裏切らず、 夾のノートはシンプルでいて綺麗で、わかりやすいものだった。


「なぁ、そのノート、試験の時にコピーさせてくれない?」
「え――?」


俺の視線を受けてもぴくりともしなかった表情が、話しかけるだけでいともあっけなく驚いた表情に変わった。俺の顔を食い入るように見つめている。
ああ、そういえば、と、自己紹介がまだだった事に気付き、とりあえず名前を言ってみる。


「俺、蘇芳慎」
「あ、お、俺は、東雲(しののめ)夾」
「ふ〜ん。で、夾。そのノート、試験の時に貸して欲しいんだけど」
「いい、けど……」


けど?
初対面のくせに物をせびる気だろうか。大人しそうな外見を裏切って腹の中は真っ黒なんてやつだろうか。
俺がそう思っていると、言い辛そうに夾が口を開いた。


「俺なんかのノートでいいのか?」


へ?って感じだった。
このノートのどこを見て『俺”なんか”の』という言葉が出てくるのかと不思議にさえ思った。
しかも不安そうに眉をぎゅっと寄せて下から覗き込んでくるものだから、俺は知らず赤面した。 なんせ夾の顔はそこらの女なんか目じゃないってくらいに綺麗で整っているからだ。
今付き合っている女だって、よせばいいのに何重にもマスカラなんか塗りやがって雨の日のデートなんて最悪だ。おまけに香水がきつい。 それに比べ夾は、マスカラはもちろん化粧なんて全然してないし、お風呂上りでもないのに仄かに石鹸の優しい匂いがする。
この白く細い華奢な体を組み敷いて――なんて考えたところで、慌てて頭を振ってやましい考えを振り払う。 俺の突然のその行動にさえ、夾は目を瞬(しばた)かせている。
そんな夾の頭を撫でて、俺にしては珍しくくすっと微笑まで零した。


「俺なんかの、なんて言うなよ。自分を卑下するな。それに夾のノートは綺麗にまとめられているし、なにより頭の悪い俺にはわかりやすく見えるんだからな」
「あ、ありが、とう」
「いや。……そうだ、この講義の後、暇か?」
「…うん。今日はこれで終わりだよ。なんで?」


不思議そうに尋ねる。
俺が、遊びに連れてってやる、なんて返せば、黒い瞳が零れ落ちんばかりに開いていた。 その反応が、まるで初めて友達に遊びに誘われた小学生のようだったから、もしかしてイジメでも受けていたのか?なんて邪推までしてしまった。
講義がひけた後、俺たちは掲示板で待ち合わせをして、大学の近くの少し古びた映画館で映画を見た。 その後に溜まり場に案内して、信用できる友達に夾を紹介した。
初めはビクついていた夾も、にこやかに手を差し伸べる俺の友達にようやく警戒心と恐怖心を解いたらしく、控えめながらも、華のように鮮やかな笑みを見せてくれた。
俺の友達も夾を気に入ったらしく、それからは事あるごとに夾を構いだした。
ただ一緒に楽しんで、言葉を交わすだけの関係から体の関係に変わったのは、夏の真っ盛りの時だった。
付き合っていた彼女と喧嘩別れした俺は、むしゃくしゃしていて癒しの場を求めて夾の家に転がり込んだ。
もう既に11時を回っているというのに、いやな顔1つせず俺を部屋に招き入れた。綺麗に片付いていて、3日に1回は掃除でもしているのか埃1つ見当たらない。 リビングルームにある少し大きめのテーブルには、レポート用紙と数冊の資料が置かれていた。
それらを適当に片付け、冷蔵庫からビールを2本持ち出した夾は、1本を俺に手渡した。
最初は本当に別れた女のグチを話していた。
口うるさいくせに、時間にルーズだ、とか、嫉妬深い、おまけに我侭だなんて話していた。夾も適当に相槌を打ってくれていて、時折可笑しそうに苦笑してた。
軽く出来上がっていた夾は、頬をほんのりと赤く染め、瞼を少し伏せていた。匂い立つような色香というものではないが、男の嗜虐心を刺激する。 裸に剥いて思う存分啼かせたらどんなに楽しめるだろう、と。
1度はその考えを振り払っていながらも、2度目は振り払えなかった。
ソファーとかベッドなんかに行くのも面倒臭くて、その場で押し倒した。 きょとん、とした目で見上げられて、ちくりと微かな罪悪感が胸を刺したが、極上の餌の前では無力に等しい。赤く色付いた唇に吸い付き舌を差し入れ、思う存分蹂躙する。 漏れ聞こえる鼻にかかった声がさらに俺を煽った。
前に1度男を抱いた事があったが、その時とは比べ物にならないくらい優しく抱いた。無意識の行動だったが、それだけで俺は夾が好きなんだな、と改めて思った。
挿入する衝撃に身を竦ませている夾の耳元で、本気では絶対に言った事のない睦言を囁く。 ただしがみついているだけの夾には、聞こえていなかっただろうし理解してもいなかっただろうが、すべてはこれからだ。これから懐かせればいい。そんな甘い考えがあった。
その翌日、ちょっとした罪の意識に苛まれ、シャワーだけを浴びて逃げるように夾の部屋を出た。思えば、これが最初に夾に与えた最初の不信感だと思う。 一方的に抱いてなにも言わずに帰るなど、体だけが目当てなんだと言っているようなものだ。
気を紛らわしたくて大学に出たのに、頭の中には夾の事ばかりが浮かんでは消えていった。 このままでは埒が明かないと、お昼に薬局に出向いて熱を出しているであろう夾のために頭痛薬を買って、もう1度夾の部屋に赴いた。
普段の俺を知っている友人が見たら、恐らく卒倒するんではないか、と思う程甲斐甲斐しく世話を焼いた。
夾の部屋に置いてあった料理の本からおかゆの作り方を習い炊いてみたり、水分のある林檎を摩り下ろしたり。 俺が失敗するたびに、心配そうに顔を覗かせていた夾を何度も寝かしつけて、時折軽いキスを施す。 性的なものを含まないそのキスに安心したのか、俺が帰る頃にはぐっすりと布団の中で寝ていた。






この日から、不信感と嫌疑だらけの付き合いが始まるとは知らずに――。


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