氷と火の恋 03




別れよう、と言った時、夾は形のいい眉をハの字に歪ませて笑って答えた。


『そうだな。もう卒業だし、いつまでも一緒にいようなって言う年でもないもんな』


いつもと変わらない、いや、最近あまり見せなくなった笑顔を俺に向ける。
本当に、すべては俺の勘違いだったのか?
夾の手の上で踊らされていたような感覚に、くらっと目眩を覚え慌ててカップを口に運ぶ。興味をなくした夾も、手元のレポート用紙に視線を落としている。
所詮、俺はそれだけの存在だったのか……。そんな考えがぐるぐると頭の中を回る。 理由もなく苛つき、当たるように椅子を蹴飛ばして伝票を持って人気の少ない喫茶店を出た。
自分の事でいっぱいいっぱいで、残された夾がどんな顔をしていたのかなんて知るはずもなかった。






ここ数年縁のなかった煩わしさが戻ってくる。
急に付き合いがよくなった俺に、次から次へと合コンの話が舞い降りてくる。自分でも顔の良さだけはいいと自負しているだけに、合コンを持ちかけるやつらの魂胆が丸分かりだ。 俺がいればそれだけいい女がやってくるのだ。そしてあわよくばモノにしようと虎視眈眈と狙っている。
男だけでなく女も、着飾り寄ってくる。大きく胸元を広げた服を着たり、見えそうで見えない男心を擽るらしいスカートを穿いて下肢を摺り寄せてきたり。 目的が丸分かりなだけに、言い聞かせるのも楽だ。
寝たいだけの女には1度限りの快楽を与え、戯れる女には甘い言葉を囁き、美味しく戴いて寝た後には後腐れもなく去る。 夾と出会う前の自堕落的な生活に戻ろうとしている。
夾の姿は見ていない。複雑な言葉や数字の羅列を、あの細いしなやかな指でノートに写していく様を見る事はもう出来ない。






「ねぇ、今度はあのお店に入ってみない?」


優越感と情欲の両方を滲ませた2つの濡れた瞳が俺を見上げている。体のラインがよくわかるぴったりした服からも、この女の抜群のプロポーションがよくわかる。
豊満な胸を摺り寄せ、両手を俺の首に回している様子は、本人にとってはカワイクおねだりしているつもりだろう。 その”恋人”に甘えられている俺も、腰に手を回して付き合っている。周囲の人々も、囃し立てるか野次るかのどちらかだ。
だが俺の中には、大人しい夾の姿しか浮かばない。2人きりでいても、外を歩いていても、決して自らは誘ったりしない。 他愛ない会話をして、ただのんびりと過ごしているだけでも、あの時は楽しいと思えた。こんなあからさまな女たちとは違う。
心の中でいつも、夾と比べてしまう。豊満な胸はなく、柔らかな抱き心地とは程遠い存在ではあるが、自分に馴染む夾の体はそこらへんの女よりも相性があっていたと思う。 少なくとも計算高いこの女よりは。
視線を逸らすように反対側の歩道に視線を向けると、呆然とした顔で俺を見つめている夾がいた。 目の前の女を押し遣って夾のもとに駆け寄りたいのにそれすら叶わない。


「ねぇ、慎……」


キスを強請るように唇を舐める女と、必死に立ち去ろうとする夾の姿を見比べる。行動に移る。
キスをするまで梃子でも動かない、という態度の女の腰を強く引き寄せ、顎を掴み上げて上向かせる。荒々しく口付けし、深く舌を差し込んで相手の口腔を嘗め回した。
ただの”別れ”の社交辞令のようなものだ。そう自分に言い聞かせる。
ようやく首に捲かれた女の腕から開放された俺は、向かいの歩道に夾がいない事に気付いた。
荒い息を吐きながらも、うっとりとした顔で俺を見つめる女の視線を無視して、俺は夾の後を追った。






数日振りに訪れる夾の家だが、まるで何年も会っていない親交のない友人の家を訪ねるような感覚だった。 扉の右側にちょこんとついている呼び鈴を押す手が震えている。


ピンポーン。


程なくしてドンドンと床を踏みつける音とともに、扉が勢い良く開いた。
夾は不機嫌そうに顔を歪め、苛立ったように俺を睨み上げている。夾……と呟きそうになる前に、夾が口を開いた。
なに?と吐き出された言葉は、見た目を裏切らず不機嫌そうな声だ。
俺の訪問を迷惑以外のなんでもないと思っているその言葉に、ぴくりと眉が動く。 それでも俺が口を挟まなかったのは、久しぶりに見た夾の姿が痩せているように見えたからだ。
バラ色…とまではいかなかったものの、それなりに血色のよさを見せ付けていた頬は心なしか削げ、潤んでいた唇はかさかさに乾いている。体も全体的に細くなっている。 ふと、夾を通り越して部屋の中を垣間見れば、リビングのテーブルには、数本の缶ビールが置かれている。
何故たったの数日で、見ただけですぐにわかるほど痩せたのか。何故自棄酒のようにビールを呷っていたのか。 何故……何故、キスしているのを目撃しただけで逃げるように去ったのか。
もしかして…と弾む期待感と、それとも…と膨らむ絶望感。
もう1度夾を見据えた俺は、否定する事を許さない言葉で、夾の部屋に上がりこんだ。
懐かしい夾の匂いが、沸かされるお茶の薫りで掻き消される。


「話ってなに?」


俺の様子を窺い、目の前に座った夾が口を開いた。
なにもなかった、俺はなにも見ていない、という態度の夾の口調に身の内から怒りが沸き立つ。 フラれてその数日後に女といちゃつく元カレになんの憤りも浮かばないのだろうか。


「お前、今日俺たちと会ったよな?」


少し顔を青ざめさせた夾が、こくりと顎を引く。


「それ見てどう思った?」


お願いだから、いやだった、むかついた、嫉妬した、と言ってくれ。
俺はこんなにも夾から離れられないのに――。


「……別に。俺には関係ない事だし」


それなのに――。
関係ない。
それは過去(むかし)も現在(いま)も俺との繋がりはなかった、という事なのか。 関係など初めからなかったようなもので、無理矢理俺が体で繋ぎとめていたというだけなのか。 3年もの間続けてきた関係は、俺からの一方通行だったのか。主だった抵抗もせずに俺に抱かれたように、ほかの男にも体を許しているのだろうか。
臨戦態勢を整えた蛇の如く、黒く醜い心が鎌首を擡(もた)げ始める。


「なぁ、夾。俺たちは別れたけど、別にする事が罪だという事にはならないよな?ならやろうか?」
「な、に……?」
「セックス」


びくりと震える体を引き寄せ、耳元で囁く。慌てて押し返そうとする夾の両手を封じて、そのまま床に押し倒す。 かたかたと震える体を包むように、角度を変えて何度も口付けた。


「は、ぁ……んん…」


必死に顔を背けようとする夾の眦から涙が流れ落ちるのを見て、唇に口付けるのをやめる。その代わり、首筋へと移動して、邪魔な衣服を剥いでいく。 きつく吸っては赤い跡を散らす胸を弄り、夾の立てた膝の間に体を割り込ませた。肩を押し上げて逃げようとする夾の体を押さえ込み、剥き出しにした夾のそれを口に含む。


「…す、おう…あっ……蘇芳ッ!!」
『なに?』


赤く潤んだ瞳を見返して、唇だけで言葉を結ぶ。微かに唇を動かす振動ですら快感に変わるらしく、弱々しく首を振ってちいさくやめてと呟いた。
赤く腫れた唇が何故こんな事を、と囁く。
そんな事、夾を忘れられないからに決まっているのに。心が手に入らないなら体だけでも、なんてほんと初めて恋を知った子供のように取り乱しているのに。


「っ、なんでだと!?お前、なんで俺がこんな事するのか本当にわからないのか?」


竦みあがった夾が俺から身を守るように肩を掻き抱いた。下から覗くように俺の顔を窺っている。


「怒っているのか?」
「ああ」


そこらへんに散らばっている物を投げ捨てたいくらいには怒っているさ。


「俺が…邪魔したからか?」
「……は?」
「俺がお前のデートを邪魔したからか?キ、キスしてるのを偶然見ただけだったけど、俺とはもうこれ以上関わりたくないだろう?」


顔を歪めて呟く夾は、泣きそうだった。
何故泣く?……俺の思い上がりのせいでなければ、泣きそうなのは俺の事を好きだからか?
もしそうなら俺は夾を試す名目で、散々ひどい目に遭わせていた事になる。そう思うと、嬉しさと相反して後悔の念が溢れてくる。
しんと静まり返った部屋に、時計の針の音だけが止まる事を知らずに響いている。


「あれは……あの女は、デートの相手でもなければ彼女でもなんでもねぇよ」
「え――?」
「だから俺は彼女なんて作ったつもりはない」
「だ、だって……」
「落ち着けよ」


呆然とした顔と驚愕した顔とを交互に浮かべている夾に苦笑を漏らし、今まで嬲っていた体を引き寄せその肩に顔を埋めた。 ぴくりとも反応せず、また嫌がる素振りも見せない夾にほっと安心する。
離れてくれないか?と尋ねる夾の言葉とは裏腹に、手に入れた宝物を離さないようにぎゅっときつく抱きしめた。


「す……」
「夾。お前まだ俺の事好きか?」


耳元で夾が息を呑んだのがわかった。
夾が動いたのはその僅か数秒後だったが、それはとても長い時間のように感じた。額を肩に押し付け、ぎゅっと目を瞑り、夾の反応を待っていた時間。 たくさんの悪行を行って、閻魔大王の御前に引き出された時とてこれ程緊張しないだろう、とさえ思えた。
夾の首が微かに縦に動いた。見えていなかったけど、振動だけですぐにわかる。
埋めていた肩から顔を離して、目を瞑っている夾に口付けた。すぐに夾の大きな瞳が見開かれ、俺を凝視する。


「蘇芳?なんでそんな顔するんだ?俺がいたら迷惑だろう?」


そんな顔。傍目にも分かる程、嬉しい表情をしているらしい。


「なんでお前がいたら迷惑なんだよ」
「だってお前彼女いるだろ」
「あれは彼女なんかじゃないって言ってるだろ」
「でも……別れただろ」


夾の声が抑揚を無くして落ち込む。その事に今度は俺が息を呑む番だ。
ただの悪戯から始まる筈だった”浮気(ゲーム)”が、これ程までに夾を傷つけていたとは――。
後悔と自責の念が押し寄せ、俯いてしまった夾の顎を捕らえて激しくその唇を貪る。 まるで離れていた間を埋めるようなその口付けが終わった後は、ただごめんと小さく呟く事しかできなかった。
それから言い訳するように後から付け足す。

「俺、お前の事試していたんだ」
「試す?」
「お前1度も俺に好きだって言った事なかっただろ?だから不安だったんだ。本当に俺の事を好きなのかって。最初にお前を抱いた時は後悔したんだ。 酔ってた所を強姦みたいに犯ったし。それでもお前は態度を変えなかったからお前も俺の事を好きなんだと思ってた。 けど、どれだけ抱いても、一緒にいてもお前の口から好きだなんて言葉は聞けなかったから、俺はお前の優しさの上に胡坐を掻いているような気になって、 お前の気持ちを探るような真似をしたんだ。女と出掛けたり、イチャついたり。なのにお前、なにも言わなかっただろ?さすがに俺だってヘコんださ。 ばかみたいに悩んで出した結論が別れる事だった」


夾は黙ったまま、ただじっと俺を見つめていた。
深い呼吸を繰り返し、もう1度言葉を紡ぐ。


「距離を置けばお前の方から、ヨリを戻したいとか、一言でも会いたいと言うと思ってた。お前の性格を考えたらすぐにそんな事あるわけないって分かってたのにな。 いつまで経ってもにじり寄ってこないお前に焦れて、女引っ掛けたのが今日だった。お前の前で女とキスしたらどんな反応が返ってくるか試したくてしたんだ。けど間違いだった。 お前をあんなに傷つけるつもりはなかったんだ。」
「俺が傷ついた?」
「ああ。顔面蒼白で今にも倒れそうだった。一瞬で後悔したさ。だからこうやって話しに来たんだよ。なのにお前ときたら俺には関係ないなんて言うしな」


苦笑して、頭を掻く。
初めて見る夾のあんぐりした顔は面白い。その口が、言葉を綴る。


「蘇芳、俺の事本当に好きか?」


まったく、なんて事を聞くんだか。人の話を全然聞いていなかったのだろうか。
それでも、夾が俺の事を疑いたくなる気持ちもわかる。だからこそ俺は顔を綻ばせて力強く頷いた。


「お前も俺の事好きだろ」


暫くして頷きが返ってくる。いつまで経っても口で、言葉で表現しない夾に初めて「口で言えよ」と言葉を強要する。
戸惑いながらも好き、という気持ちを吐露するその唇を己のそれで塞いで、夾の体を強く抱きしめた。
もう2度と離さないと心に誓って、その耳元に優しく愛を囁いた。


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