炎の檻 01




頭上を覆う木から花びらや葉っぱが風に吹かれて周囲を舞っている。
広い大学構内の人気の少ない裏庭で、俺は身も凍るような思いをしていた。






「蘇芳くんから離れてよ!!」


薄茶の髪を腰で揺らし世間では好印象に写るナチュラルなメイクを施した女が、開口1番にそう叫んだ。
吊り上り気味の眦にほんの少し浮かぶ透明な雫。


まるで海から上がってきたばかりの水に濡れたヴィーナスの如く、彼女は美しかった。


主張する程大きくもなくまた小振りでもない可愛らしい形の胸の前で組んだ細い腕、蘇芳と並んでも誰にも変な目で見られない、 それどころか羨ましいと羨望の眼差しで見られるだろう彼女に、嫉妬した。


そんな自分は汚い――――。






ついこの間までのぎくしゃくした冷めた関係はなんだったのだ、と思うまではいかないまでも、それなりに仲の修復できた俺と蘇芳は、 Aランチの乗ったトレイを手に持って空いている2人用のテーブルに腰を下ろした。
ちょうど窓際で燦々と輝く太陽の光りが容赦なく、といっても冷房の効いたカフェテリアには関係なく降り注いでいる。
シーフードのドリアにたっぷりのサラダ、フォカッチャにデザートはチョコレートアイスクリームだ。勿論、申し合わせたように2人とも同じメニュー。
ほぼ同時に食べ始めたのに、俺がドリアとフォカッチャを片付け、ドレッシングをかけたサラダに手を伸ばした頃には、 蘇芳は最後の1口のチョコレートを腹に仕舞い終えた後だった。 常日頃から運動を怠らない蘇芳と違って、運動という運動をまったくしたがらない俺とでは消費・補給するエネルギー量も、食べる速さも違うと知っていながらも、 少しムカっとくる。
気持ちを素直に出せるだけ、世の恋人たちが羨ましいと妬むだろう。逆に俺は、内に溜め込んでどこで発散していいかわからずに、相手を苛々させる。 それで1度2人の仲が破局を迎えた程だ。
喧嘩する程仲が良い。その諺を誰かに言われるくらいまで蘇芳に近づきたいと思うのに、逃げに走ってしまう俺は蘇芳でなくても、苛々するに値する人間だろう。
暗くなる思考の中で、食べるスピードが先程よりも格段に落ちた俺に気づいたのか、備え付けのティッシュで口を拭った蘇芳が俺に声を掛ける。


「自分のペースでいいから、ゆっくり食べろ」


そう言って、僅かに口端を上げる。
これは、最近よく見かけるようになった蘇芳の笑った顔だ。この間までの無表情な顔から一変して、蘇芳は最近よく色々な表情を見せてくれる。 それは、友人たちに向けるふざけた顔ではなく、俺だけに向けられる情愛のこもった顔だ、と思う。
無意識に顔に熱が集まる。くくっと笑う蘇芳に、照れ隠しのように残ったメニューを平らげていった。
ようやくサラダとアイスクリームの皿を空にすると、不意に前方からにゅっと手が伸びてきた。蘇芳の手だ。


「ついてる」


へ?と間抜けな声を上げる事も許さぬまま、蘇芳が俺の口端から掬い取ったチョコレートアイスの欠片がついた指を器用に舐め取った。
恋人同士(周囲から見ればただの親友同士だろうが…)がやるには甘い行動だが、 俺にはその行動が最中の、つまり…えぇと、アレに見えたわけで、更に顔を赤くして俯いた。


「夾」


蘇芳の低い声が、顔を上げる事を促す。その声に従うようにゆっくりと真っ赤な顔を上げれば、にやにやと笑う蘇芳の顔があった。 絶対、俺の反応を楽しんでいるに違いない。


「思い出したのか、アレを?」
「っ、蘇芳!!」


確信犯だ。
ぶすっと膨れっ面をしても、蘇芳は笑ったままだ。


「勝手に思い出した夾が悪いんだろう」
「思い出させるような行動をしたのは蘇芳の方だろっ」
「俺は夾の顔についたアイスを舐めただけだ」


それだけであんなに真っ赤になるなんて、とからかっているとしか思えない言葉を付け加えて、追加注文していたらしいアイスティーを流し込む。
俺はといえば、バイトもしていないし親の仕送りとわずかな奨学金だけで生活しているため、アイスティーなんていう追加注文の豪華なものは頼めない。 そのため、無料で設置されている冷や水をこくりこくりと飲むだけだ。時折、蘇芳が奢ってくれる事もあるが。


「夾、この後俺の家来るか?」
「え?」
「夾の家でもいいけどな」
「なんで?」
「夾の期待に応えて、たっぷりと舐めてやるさ。……どこもかしこもな」


にやりと不敵に笑んで颯爽と席を立った蘇芳の言葉をやや遅れて理解した俺は、誰もいない前方の席に思わず口に含んだ水を噴き出していた。 ぽたぽたと顎を伝って流れ落ちる水と不審気な視線を投げかける周囲に耐えられなくなった俺は、適当にテーブルを拭いてがしゃんと陶器のぶつかる音を幾度も立てさせながら、 「蘇芳!!」と叫んで、その背を追った。






周囲の人々には会話は聞こえていないから、一見すればふざけあった親友同士にも見えるだろう。現に囃し立てる幾人かの男の声と笑い声が背中を押す。
だがその中に、俺の背中をきつく睨みつけるやつがいるとは、考えもしなかった事だ。






蘇芳のその言葉通り昨夜さんざん可愛がられた俺は、気怠げに午後からの講座に顔を出していた。
寝た、というか寝かせてくれたのが明け方近くだった事もあり、重い瞼を擦りながらノートを開いて黒板に書かれた文字と数字を書き写していく。
ふと隣から視線を感じ顔を上げると、机に片肘をついてこっちを見つめる男の存在に気づいた。


「なに?」


訝しげに眉を顰めて男を見遣る。いくつかの授業で同じ森野という優男風情の男だ。
森野は穴が開く程俺の事を見つめて、周囲に声が聞こえないように極力ボリュームを下げた調子で逆に俺に尋ねた。


「東雲ってさぁ、彼女いたっけ?」
「はぁ?」


彼女、という言葉にどきりと心臓が跳ねる。彼女じゃなくて彼氏ならいるけど…という言葉を飲み込んで胡散臭く森野を見返した。
名前すら思い出すのがやっとというのに、いきなり『彼女いたっけ?』と聞き出す森野にちょっとした抵抗心が芽生える。 俺からしてみれば、俺みたいなやつに彼女ができる事が不満だ、と言っているようにも聞こえるからだ。
生え際に白い物が混ざり始めた教授が、テキストと黒板を見比べてさらに文字を付け足していくのを無視して、シャーペンの頭を無意識に唇に押し付けた。


「俺に彼女がいたら悪いわけ?」


俺の言葉の端々に滲む棘に気付いたのか、森野は慌てて首を振った。


「ち、違う、そういう意味じゃなくてさ。さっき、すっげー美人が東雲の事探してたんだよ。ぱっと見、遊び人風には見えなかったから東雲の彼女だと思って、聞いてみただけだよ。 心当たりあるのか?」
「いや。生憎とそんな美人には俺も会った事はないようだよ。記憶にないからね」
「まじ?くっそー。彼女じゃなかったら紹介してくれって頼むつもりだったのに!」
「残念だったね」


自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱し心底残念がっている森野に、同情の念を向けながらも苦笑してしまう。
それにしても気になるのは俺を探しに来たという美人の女の正体だろう。
大学に入ってから今まで蘇芳しか眼中になかった俺にとって、例えどんなに目を見張るような美人でも振り向きさえしないだろう。 それに逞しいわけでもなく健康的なわけでもない俺に靡く美人などどこを探してもいないだろう。
その事を踏まえると絞り出される1つの結論。蘇芳がらみだ。
今までにも、四六時中というわけではないが頻繁に蘇芳の側に姿を見せる俺に、幾度も女たちからの嫌味を受けてきた。 別段、俺と蘇芳との仲を知っているような人間はいなかったため、蘇芳に相談する事もしなかった。今回もそんな事だろうと思っていた。
独特のチャイムが鳴り響く中、席を立った俺の後を森野が追いかけてくる。「東雲!」と呼び止められて仕方なさげに振り返った。


「なに?」
「いや、この後暇かな、と思ってさ」


何故か頬を染めつつ言い募る森野を不思議な思いで見て、ゆっくりと首を横に振った。


「暇だけど暇じゃない」
「…は?」
「遊ぶ時間がある程度には暇だけど、約束があるから暇じゃないって事だよ」
「はぁ…」


納得のいかない様子の森野をほっといて歩みを進めようとした俺の腕を、森野が力強く引きとめた。


「森野…」
「どこに行くかくらい聞いてもいいだろう?」


興味津々の森野の瞳に、うっと言葉に詰まる。知らず吐き出される深い溜息。


「……蘇芳の所」
「え、蘇芳って、あの蘇芳慎の事?」


驚いた様子で目を見張る森野を尻目に、不承不承頷く。そう、蘇芳は女だけでなく男の間でも知らぬ人ぞいない程有名なのだ。
例えば蘇芳という名前を出すだけでいい女が釣れるだけでなく、男友達とも友好すぎる仲を築くのが蘇芳のいい所と繋がるだろう。 それ故に、蘇芳を毛嫌いするという人間の方が珍しいのだ。
そして森野が驚いたわけは、まったく正反対の俺たち2人が遊びに連れ歩く程仲が良さげであるという事だろう。


「えっと、東雲と蘇芳ってどういう関係なわけ?」


躊躇いがちに尋ねる森野を、ぎっと睨み付けたくなる。
俺と蘇芳との関係が歓迎されるようなものじゃないとは分かっている。だからこそ、尋ねてくる森野が厭わしかった。


「……ただの、友達だよ」
「ふーん…」


俺の腕を掴んでいた手を離して、今度は両手を頭の後ろで組んでいる。その格好で俺の隣を歩くもんだから、狭い廊下をめいいっぱい幅取っている。
俺が誰に会いに行くかわかっているのに後をついてくるって事は、蘇芳の所までついていくという事だろうか。そう思って隣を歩く森野の顔を窺い見た。 するとそんな俺に気付いたのか、高い位置から俺を見下ろした森野がにっこりと満面の笑顔を俺に向けた。
思わずげんなりしそうな顔を隠して、蘇芳の最後の講義がある教室へと向かっていった。
新しく建て替えたばかりの教室は、ペンキの匂いがつんと鼻を突く。1階に4つしかない教室の1番奥に蘇芳が受けている講義の教室があった。
チャイムは鳴り終わったにも関わらず教室からは話し声と笑い声が聞こえている事から、幾人かの友人と談話に興じているのだろう。
その中でも一際低く通る声が蘇芳の声だ。
蘇芳がどんなに大勢の中にいても聞き当てる事の出来る俺の有能な耳を褒めてやりたいくらいだ。 にんまりとした顔を隠せず教室の扉に手を掛けた所で、不意に聞こえてきた会話にびくりと体を竦ませた。


「蘇芳くん、今日暇?」


甘ったるく誘うような声と、聞き覚えのある台詞。
どきんどきんと心臓の音が煩く響いている。






扉に掛けた手が、震えている。


『蘇芳くん、今日暇?』


ずっと前に聞いた台詞。あの後、蘇芳はなんて言ったっけ?
そうだ―――


『暇だよ、どうかしたのか?』


って呟いてたっけ。
まだ擦れ違ったままに意地を張り合っていたあの頃の言葉が胸に突き刺さる。俺の目の前で他の女とデートの約束を取り付けた蘇芳のあの言葉。
平常心を保とうとすればする程、俺の心臓は胸を突き破るんじゃないかってぐらいに激しく脈打つ。
扉を開こうとして固まった俺を、側に立つ森野が不審な目で見ている。けれどそれすらも気にならないくらいに、俺は動揺していた。蘇芳がどう答えるのかが知りたかった。


「いや今日は用があるんだ。じゃあな」


暫しの沈黙の後の蘇芳の言葉に、ほっと肩の力が抜ける。無意識のうちに張り詰めていたらしい。
中から聞こえてきた声と俺の反応に少しばかり疑いの眼差しを向ける森野を微妙な笑顔で交わし、手に掛けたまま凍りついていたノブを回して扉を開いた。
それと同時に聞こえてくる重なり合った2つの違う声。


「「あ…」」


1つは蘇芳の口から発せられた言葉だとすぐにわかった。ぽかんと開かれた間抜けな口元と驚いたような表情、それになにより低い声ですぐにわかる。 だがもう1つの声は隣から聞こえてきた。
なんだ?と思いつつ横を見上げれば、ここにも同じくぽかんと開かれた間抜けな口元が見えた。 しかしその目は驚いたというよりも、歓喜を表すかのように三日月形に歪んでいた。そしてその目に映っているのは蘇芳の隣に立つ、やはり見覚えのある女だった。
癖のないストレートの髪を腰まで伸ばし綺麗に見えるメイクを適度に施した、篠宮という女。
彼女も俺に気付いたのか蘇芳の隣で、強い眼差しでもって睨みつけている。つい先程まで蘇芳に向けていたであろう笑顔とは正反対の顔。 その変貌のしようがまるで般若のようだ。
隣で嬉しそうに顔を赤らめている森野が、俺の脇腹をつんつんと突付いている。


「なんだよ」
「彼女だよ、東雲を探しにきていた女ってやつ。蘇芳の隣に立ってるだろ?じっとお前の事見つめてさ、気があるんじゃねぇ?」


にまにまと下品な笑いを浮かべながら、俺の耳元に顔を寄せて囁いている。


――気があるんじゃないかって?どこを見たら”見つめてる”って事になるんだよ。思いっきり睨みつけてるじゃないか!!


目でも狂ったのか?と言わんばかりに、近づいていた森野の顔を引き離す。片手で森野を押し返して肩からずれた鞄を担ぎ直そうとしていた所に、いきなり体がぐらっと傾いだ。 つかつかと歩いて来た蘇芳が俺の体を力強く引き寄せたからだ。


「蘇芳?」
「…帰るぞ」


有無を言わせないように、俺の体を引きずって教室を出て行く。俺は転ばないように体勢を整えるのに必死だ。
後ろ手に蘇芳が扉を閉める時視界の隅に呆然とした森野が映ったがこの際どうでもいい。今は怒ったように目を吊り上げ、ぐんぐん先を歩き続ける蘇芳の方が重大だ。


「ちょ……蘇芳、離せって」


手の跡が赤く残るんじゃないかってぐらいに強く握りしめた俺の手首を、だがしかし不機嫌そうに離す。
はぁはぁと乱れた息を、胸を軽く押さえる事で整える。
そうしてようやくまともに蘇芳の顔を見れば、やっぱりというか予想通りというか苛々とした表情の蘇芳がいた。


「蘇芳……?俺、なんか気に障る事でもした、か?」
「………」
「蘇芳?」


なにも答えない蘇芳に途方に暮れる。だが蘇芳が答えようと口を開くと、発せられる言葉にびくびくと反応してしまう自分がいる。
そんな俺をどう思ったのか、蘇芳は長く深い溜息を吐いた。


「別に、夾のせいなんかじゃないさ。ただちょっと……」
「なんだよ」
「…嫉妬しただけさ」
「………はぁ―――?」


蘇芳の口から出た、突拍子もない言葉に目がぽろりと落ちるのではないかと思われるぐらい大きく見開いた。


「し、嫉妬?」
「………」
「あ、いや、決してバカにしてるわけじゃないんだからな。で、でも誰に嫉妬したわけ?」


疑いの眼差しを向ける俺を、じろりと睨む。それがあまりにも一般人に向けるような可愛げのある睨みじゃなかっただけに、一瞬肝が冷える。 慌ててフォローの言葉を入れるが、やはり気になるものは気になるもので恐る恐る尋ねてみた。


「誰に?」
「…夾の隣にいた男に」
「隣って……森野?」


確認を取ろうとする俺を鋭く一瞥して、蘇芳は俺を置いたまますたすたと歩き出してしまった。
今日知り合ったばかりの森野に嫉妬してくれた蘇芳に、情けないくらいに頬が緩む。多分この顔を蘇芳が見ていたら気持ち悪がられる程にまにましていたんだと思う。 何故なら擦れ違う人々がぎょっとした目で俺を眺めているからだ。
置いてけぼりをくらった俺は昨日のカフェテリアでの行動と同じく、慌しく蘇芳の後を追った。


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