名前を呼ばないで 03




腕時計を確認して溜息を零した。
指定された時間はとうに1時間前に過ぎている。
先輩になにかあったんだろうかと心配になるけど、どうしても連絡する気にはなれなかった。
先輩に指定された蓬莱堂は先輩の学校の近くで、部活帰りの生徒の姿が見られる。
S校の制服に身をつつんだ僕は随分と浮いていて、その上1時間以上も前から居座っているものだから店内の視線を浴びていた。
俯いていた僕の携帯が鳴る。先輩かな、と思って受信箱を見ると雪だった。


――報告~~♪
僕にもカレができたよ。M校の月森先輩って人。知ってる?今度Wデートしよう(笑)


一瞬にして店内の喧騒が僕の頭から消えた。
雪が月森先輩と付き合う。
それは、僕の事がばれたという事で、僕は用なしって事で……。
当たり前か、と自嘲した。元から先輩が好きなのは、僕じゃなくて雪だったし。
先輩になんて言おうか、と頭を抱えていると蓬莱堂の自動ドアが開いて僕にも喧騒が戻ってきた。
新しい客に、店内が色めき立っている。そうさせるだけの雰囲気を持つ人を僕は知っている。
先輩がきたんだとすぐにわかった。
けど頭を上げる事はできなくて、僕の前で止まった靴の先を見ていた。


「先輩……」
「お前、冬だろ」


冷水を浴びせられたように、体ががたがた震えて言う事を聞かない。
今まで先輩にそういうふうに声を掛けられた事がなかった。けれど1度だけ、先輩のその冷たい声を聞いた事がある。
僕に手を出そうとした男の人に、低い声で消えろ、と言ったのだ。"僕"の身じゃなく雪の身を心配しての事だったのに、とても嬉しかったのを覚えている。
だけど今日は僕がその冷たい声を浴びせられている。
がたんと椅子が引かれて、僕の目の前に先輩が座った。


「ずっと俺と会っていたの、お前だろ」


お前だなんて他人行儀だけど、先輩にとって例え雪と同じ顔でも僕は他人なんだ。
こくんと頷くと苛々したように先輩が舌打ちした。


「なんでずっと黙ってたんだよ。面白かったか、俺を騙すのはよ!」
「ちがっ…」


はっとして顔を上げると、汚いものを見る目付きで先輩が僕を見ていた。
9時を過ぎたとは言え、まだ喫茶店は人に溢れていて周囲の人が聞き耳を立てて僕たちの会話を盗み聞きしているのがわかった。


「なにが違うっていうんだ?S校の高名な藤宮が双子だって事に気付かない俺の方が確かに間抜けだったけどな、俺だって雪を探すのに必死だったんだぜ。 冬、お前じゃないんだ」
「っ…、」


わざと雪の名前を強調して、僕じゃないと否定する。
それがどんなに胸が痛むか先輩は知らないだろう。いつも雪と比較されて、いつも雪より出来が悪いと言われている僕の気持ちが。
でも僕が悪いって事は重々承知している。だから黙したままなにも言えなかった。
ただ謝る事しかできない。


「ごめんなさい…」
「ちっ、ごめんで済むなら俺だっていちいちお前相手に苛々したりしねぇよ。あの雪と同じ顔でここまでコケにされたら、雪の弟だってわかっていても殺したくなるぜっ」
「ごめ、なさ…っ」


耐え切れなくて、頬を涙が伝う。そんな顔、見せたくないのに僕の意志に反して流れる涙を隠すように再び俯いた。


「ごめんなさ……ぃ…でも、ど、どうしても…先輩と話したくて……っ、」


それでもどうしようもなく先輩に縋りつくように言葉を綴っていた。
だがそれすらも先輩は拒絶した。


「俺にはもうお前と話す事なんてないね。―――俺の前から消えてくれ。顔を見るのも不愉快だ」
「―――」


ぐっさりと胸を突き刺す矢の如くまっすぐに刺さってくる先輩の言葉に、僕は嗚咽を洩らす事なく涙が流れていった。
けれど現実離れしたどこかで、先輩の言葉に笑っていた。


――僕と同じ顔の雪を見て、不愉快になればいい。苦しめばいい。


と。
でも例え雪と僕が同じ顔でも性格は違っていて、雪ならば先輩を苦しめる事も不愉快にさせる事もないだろうと、否定して自嘲した。
追い討ちを掛けるような苛々したテーブルを叩く音に、僕は静かに席を立った。涙をごしごしと制服の袖で拭いてもう1度だけ謝った。
聞いているのか聞いていないのか、どうでもよさそうな先輩を最後にちらりと見て蓬莱堂を出た。
きっと目が赤いだろうけど夜の街では誰にも気づかれないし、電車の中でも俯くようにして家に帰った。
照れたように先輩の事を話してくる雪を突き放して部屋に篭り、久しぶりに大泣きに泣いた。 雪が心配そうに時々部屋のドアをノックするが、鍵を掛けて夜通し泣き続けた。






翌日は予想した通り、頭が重くて体がだるく、とてもじゃないけど学校なんていける気分じゃなかった。でも幸いな事に土曜日で、学校自体が休みだった。
両親は朝からおらず、僕が起きた時には冷めた朝食がテーブルの上に乗っていた。
まるで僕の事を気にしていないようにラップもされていなければ、牛乳だってそのままだ。ほんと、ただ準備しただけみたいな感じだ。
食欲はあったから、とりあえず胃に入れようと冷たいパンとスクランブルエッグを食べ、くんくんと匂いを嗅いで牛乳も飲んだ。
のろのろと片付けていると雪が部屋から出てきた。
ばっと下を向いたのは泣いていたのを誤魔化すためだ。だけどどう隠したって泣いていたって事は明白だった。


「ねぇ、冬。あのさ、こんな事今聞くのもどうかなって思うんだけどさ。冬、付き合ってた人と別れたの?」


ストレートに物を言う雪はどちらかと言えば嫌われるタイプではないけれど、なにもこんな時にって思う。


――付き合ってるもなにも、雪の代わりに付き合っていただけだけど。


と言ったら、雪はどんな反応をするだろうかと想像してくすくすと笑い、訝しげな顔をする雪にうんと首を振った。


「どうして?」
「さあね」
「さあねって、冬はそれでもいいの?」
「いいもなにも、もう終わった事だし」
「ちょっと、冬っ」


煩い。
頭痛いのに、耳元で叫ばないで欲しい。


「雪はどうなの?昨日メールしたじゃない。M校の月森先輩と付き合うんだって」


自らの、まだ癒えぬ傷を抉るように、けれどそれが僕に科せられた罪なんだとばかりに、月森先輩の話題を提供する。
途端に雪の顔がほんのりと薄紅を射したように赤く染まった。


「ど、どうなのって?」
「今日、デートじゃないのって思ってさ」


雪の顔を見ないように、食器を台所まで運んで洗い出す。
真っ赤になった雪が、さっきまで僕が座っていた席に座ってしどろもどろになっていた。


「デ、デートだけど…」
「だけどなに?」
「先輩、本当に僕の事好きかなって」
「どうして?」
「『好きなんだけど…』って言った時、最初興味なさそうにしていたから」


あの月森先輩が雪に告白されて興味なさそうにしていたって?
それは…きっと、先輩の演技だろう。さらに先輩に傾倒するように仕向けるための見事な演技。
だって、昨日あんなに僕の事を滅茶苦茶に言ったんだから、雪に興味ないっていうのは絶対にうそだ。


「ふーん。演技じゃないの?雪をどうしても手に入れたいから、雪がどんどん自分に興味を持つための演技」
「そうかなー?」
「それよりも早く準備したら?待ち合わせに遅れるんじゃない?」


雪と先輩の待ち合わせ時間なんて知らないけれど、付き合っていたほんの僅かの期間にわかった先輩の日常。お昼くらいに合うのが常だった。 夜に会う事は滅多になかった。
案の定、あっと短い声をあげて慌てて雪が家を出て行った。






雪がいなくなった後の家は静かで、僕がお皿を洗うかちゃかちゃという音しか響かない。
一段落付いてテレビでも見ようかとチャンネルを握ると、無音だった世界に場違いなメロディーが流れた。僕の携帯だ。
あれ、と思い部屋まで引き返して携帯のサブ画面を見ると「嗣仁」と表示されていた。嗣仁は僕の友達で、なにかと世話を焼きたがるおせっかいな人だ。
溜息を吐くような事じゃないけれど、そんな気持ちで携帯の通話ボタンを押した。


「もしもし」
『あ、冬ー?俺だけど』
「俺って誰ですか?」


わざと素っ気なく尋ねると、電話の向こうで嗣仁がくすんくすんと嘘泣きをするのがわかった。
場を盛り上げてくれる嗣仁のおかげか、幾分気分が浮上する。


『冬くん冷たいのね』
「はいはい。なんの用?」
『んーとさ、今日暇?服買いに行きたいんだけど、俺ってセンス悪いじゃん。冬にいろいろ見てもらいたいなーと思ってさ』
「僕より雪に見てもらった方がいいんじゃないの?」
『ご冗談でしょ。俺は雪とは合わないの』


嗣仁のその言葉通り、確かに嗣仁と雪はなにかとつっかかってばかりだ。
どうしてそうかなーと僕が不思議がるくらいに、2人はそりが合わない。


「ん、いいよ。ちょうど僕も暇だし、嗣仁に付き合ってあげる」
『え、まじで?良かったー。最近冬、付き合い悪かったからさ、断られるかと思ったぜ』


何気ない嗣仁の言葉に、どきりとした。
嗣仁と付き合いが悪かったのは、月森先輩と一緒にいたからで用無しとなった今では確かにフリーで……。
そう思うと、なんだか僕の都合で嗣仁を付き合わせているような気がして申し訳なく思ってしまう。そう見越したかのように、嗣仁の声が耳元で聞こえた。


『じゃー、1時間後にR駅前にな』
「…うん、わかった」


じゃあ、と電話を切った。
嗣仁の言葉に甘えて出かける事に決めた僕は、とりあえず服を着替えて顔を洗い歯まで磨いて、財布と携帯だけを手に家を出た。
1時間後という予定時間よりも早めについたけれど、嗣仁はそれよりさらに早くついていたらしくすぐにお目当てのデパートへと向かった。
月森先輩ほどじゃないけれど嗣仁も注目を浴びるうちの1人で、女性の視線が集中してくる。
やっぱり、人の視線を浴びるのが好きじゃない僕は居心地の悪さを感じ、ふと雪はどうしているだろうと考えを巡らせてしまった。
1度考え出すとどんな状況であろうと深く考えてしまうのが僕の悪いところなのか、嗣仁の存在も忘れて雪と先輩の事を考えてしまっていた。
雪なら先輩と並んで歩いても気後れを感じなさそうだし、話題が乏しくなる事もないだろう。 先輩の顔も始終笑顔だろうし、いい事尽くめだろうなと思うと、自分が余計惨めに感じられて唇をぎゅっと噛み締めた。


「…ゆ、…冬!」
「え、な…なに?」
「なに、じゃなくてさ。コレとコレ、どっちがいいと思う?」


嗣仁が示したのは、灰色のTシャツと黒いポロシャツの2点。
今嗣仁が履いているジーンズと彼のルックスを考慮して僕が選んだのはポロシャツの方だった。
嗣仁は無造作にそれをかごの中にいれ、ふぅと溜息を吐いた。かごの中には既に6、7点入っている。


「こんくらいでいいか…」
「そうだね」
「つき合わせて悪かったな。助かったよ、ありがとう」
「いや、別に」


逆に僕こそお礼を言いたいくらいだ。
きっと家に居たら、今以上に取り留めのないほどいやな考えが浮かび、一人鬱々としていた事だろう。そう考えたら、誘ってくれてありがとうって感じだ。


「そうだ。暑いし、アイスでも奢ってやるよ。バニラでいいよな?」
「えー、バニラー?定番じゃん。ミントチョコがいいよ」
「我が儘だな。仕方ない、ほら行くぞ」


精算を済ませた嗣仁が荷物を片手にさっさとエスカレーターを下っていった。
その後を追いかけて、僕も1階へと降りていった。


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