炎の檻 03




「東雲ちゃん」


そう言って少し遠くはなれた場所で手を振っているのは、清々しい朝にふさわしい爽やかな笑みを浮かべた森野だ。 今さっきまで喋っていた友達らしい人物に別れを告げ、一目散に駆け寄ってくる。
ここの所毎日という程顔を合わせるが、あまり噛み合った会話というか俺が適当にあしらっているにも拘らず、 親友のように接する森野になかば諦めにも似た思いで振り向く。


「どうだった、昨日は?」


舌なめずりでもしそうな顔をしながら森野が俺に追いついた。


「特になにも」
「なにも?嘘吐くなよ。さぁ吐け!」
「吐けって言われてもなにもなかったもんはなかったんだから、吐きようがないだろ」
「……まじで?」
「まじで」


しつこい森野を引き連れながら掲示板に張り出された紙を見て、今日の講義に変更がないのを確かめてから教室に向かう。
その後ろから不思議そうな顔をした森野がついてくる。


「なぁ、それ嘘だろ?」
「くどいぞ」
「じゃあその首のキスマークはなんだ?」
「―――っ!?」


つ、となぞられた首筋に、そういえば蘇芳が!と慌てて首に手をやる。


「か、かかかか蚊だ!!」
「いいよいいよ、そんな変な嘘吐かなくて。あーあ、残念だ。カナちゃんだっけ?ちょータイプなのになぁ…」


――性格は八方美人だがな、っていう事は黙っておいた方がいいだろうか。
恨めしく俺を睨む森野に勘違いさせたまま、俺は席についた。当然のように森野が隣りに座るがもうなにも言うまい。






午前中の講義が引けた12時30分頃、教授と入れ替わりに顔を覗かせた人物にざわっと多くの人がざわめいた。
生憎とお喋りに夢中になって真っ白のノートを必死に埋めていた俺は誰が入ってきたのかわからなかったが、 これまた俺をお喋りに引きずり込んだ張本人の森野がつんつんと脇腹を小突いた。


「ンだよ」
「蘇芳くんが来てる」
「えっ!?」


ガタンと音を鳴らして立ち上がった俺に、向こうだよと言って森野が指差す。その方向には森野の言う通り、教室中の視線を物ともせずに歩いてくる蘇芳がいた。
わたわたと動転する俺の前に来た蘇芳が、何故か森野を威嚇するような眼差しで見ている。


「す、おう?」
「……お昼、悪いけど一緒に行けそうにない。今日中に出さないといけない課題を忘れたから一旦家に戻るよ」
「わ、わかった」


相変わらず視線は森野に向け、声だけを俺に向けている。
その蘇芳に睨まれた森野は顎に手を当てたまま固まっている。蛙状態、というよりはなにかを考えているようだ。
2人は気が合わないのだろう、と瞬時に察した俺は、ふと疑問が芽生えた。


「蘇芳、なんでわざわざ俺に会いに来たんだ?メールすればいいだけなのに」
「充電が切れた」
「あ、そう」


事も無げに言う蘇芳にがっくりと肩が落ちる。顔が見たかったから、という台詞を少しでも期待した俺がばかだったようだ。
はぁと溜息を吐いた俺に、漸く森野から視線を逸らした蘇芳が声を掛ける。


「そういえば、月曜日は絶対に空けとけよ」
「……なんで?」
「いいから、分かったな」
「オッケー」


それからもう1度森野を一瞥して教室を出て行った。なんだか嵐のようだった。
一体なんなんだ、と4、5個程のクエスチョンマークを浮かばせるが、なかなかいい答えも浮かばないもので、仕方なく黒板に目を戻して、ノートの続きを取り始めた。
いまだ森野は顎に手を当てている。それを急に解いたかと思うと、指を鳴らしてとんでもない発言をした。


「蘇芳って東雲に気があるんじゃねぇ!?」
「ぶっ!」
「おい、大丈夫か?」
「お前の頭の方が心配だよ!なんでそんな考えが出るんだッ?」
「なんだお前、古い考えしてるな」


はぁ?と口を開ける俺に人差し指を突きつけ、いいか?ともったいぶって切り出した。


「恋愛が男女間のみに成り立つなんて考え自体が古いんだ」
「………」
「子孫を残す事が大切だとは思うが、そこに愛がなければ恋愛じゃない。ただの…ウーン……ま、つまりだな、愛がなければ家庭は冷めちまう。 そうなったら子供はだめになる。ところが子供がいなくても同性間でしかも愛があれば、すべて万々歳だ。 2人の間に冷めた空気なんて流れないし子供がすべてってわけでもない。ヨーロッパとかじゃ同性婚を認めてる国もあるくらいだ」


初めて見る森野の真剣な顔に思わず息をするのも忘れてしまった。
まるで、おふざけではなく本当に俺と蘇芳がそういう関係である事を見透かしたような森野にごくりと喉を鳴らすが、それでも言われた内容に思わず目尻が熱くなった。


「…俺、お前の事見直したかも。なんか森野、かっこいいじゃないか」
「だっろー?もっと褒めてぇ」


最後の一言がなければ本当に良かったのだが、感極まった俺はそんな事も気にならない。
ただ、がしっと森野の肩を数秒抱いただけだった。






土曜日の夜。
部屋の電気だけを点け、ベッドに横になって天井を見上げながら明日の事を考えた。


明日、蘇芳は友達と出掛ける。


その友達が誰であるかはわからないが、蘇芳を尾(つ)けてみろと言ったあの自信ありげな様子の篠宮からして、 相手が彼女である可能性は十分に高い。
蘇芳を尾けようか、それとも信じて月曜日を待つか。瀬戸際だった。


「……よしっ!」


起き上がって気合を入れ、明るい蛍光色の光りを発する電気を消した。
がばっと布団を被ってはみたもののもやもやした気分が取り除けず、漸く眠りについたのはそれから1時間も後だった。






翌朝は絶好の日だった。
雨を降らしそうなどんよりした厚い雲が空を覆っている。風は冷たくひんやりとしていた。
遠く数10m先の足先だけが見えるように傘を目深に差しても不審者に間違われる事は少ないだろう。
蘇芳は休みの日はどんなに遅くても9時までは寝ている。 その事を踏まえて9時30分頃に蘇芳のマンションの真向かいに位置する小さな喫茶店でモーニングセットを頼んだ。
まだ部屋にいるとは思うがもしかしたら…と思い、携帯でメールを打つ。


ビデオデッキが壊れたから、蘇芳の家で1時から放送する映画を録画してくれないか?


みたいな内容で構わないだろう。家にいればちゃんと録画予約してくれるはずだ。
案の定5分もしないうちに「わかった」とのメールが届いた。
まだ部屋にいるらしい。
蘇芳のマンションの入り口がよく見えるように入り口に近い窓際の席に座り、 分厚いトーストとベーコン、スクランブルエッグとポテトサラダとコーヒーという朝から豪華な朝食を食べ始めた。
通りの少なかった道にもまばらに人がちらつき始めた頃、蘇芳が出てきた。慌てないで会計を済ませ、目立たない程度に喫茶店を後にする。
ここに来た頃にはまだ晴れていた天気も、今はぽつぽつとささやかな雫を落としていた。濃紺の傘を差して蘇芳から10m程離れて後を尾け始めた。
蘇芳のマンションから15分歩いた所にある駅前で、相手と合流した。やっぱりと肩を落とした通り、蘇芳の視線の先には篠宮がいた。
自慢のストレートヘアを今日はくるくると緩くカーブさせてボリュームをもたせて、服装は露出の多いものだ。 髪に関しても服に関しても、肌寒ささえ感じる雨の日には少し間違っている。
雨が降る事も分かっていただろうに傘も持たず駅に佇んでいた篠宮を、車を注意しながら車道を渡った蘇芳がその傘の中に入れる。
狭い傘の中でお互いの肩がくっつく程密着している。車道側を歩く蘇芳の左手に篠宮が手を絡ませた。
どくん、と胸がざわつく。
けれどすぐに蘇芳がやんわりと手を外した。その事にほっとしながら、2人についていく。
篠宮がぶすっと頬を膨らませて可愛く拗ねているが、蘇芳は苦笑しながら話しかけている。
ここからは遠すぎて口が動いているようにしか見えない。
美男美女のカップルというのは、この2人の事を言うんじゃないだろうか。
暫く歩いた2人が入っていったのは、いくつもの店舗が軒を連ねる大型のショッピングセンターだ。この地域最大級で出来上がった時は地元のニュースにも新聞にも載っていた。 4階建てで3、4階部分は駐車場になっているが、1、2階はかなり広い。
2人は1階を適当にぶらつきながら、ショーウィンドウを覗いたり中に入ってよく見たりしている。 女性服やシルバーアクセサリー系の見せには目もくれない事から、蘇芳のものを選んでいるのだろうか。 篠宮の顔も彼氏にプレゼントを贈る初々しい彼女のように真剣に見定めている。
篠宮が選んだ物を蘇芳が吟味して首を横に振ったり、うーんと考え込んで保留にしたりしている。


――俺とはした事のないデートコースだな…。


と自嘲気味に笑うが、それに気付く者は誰もいない。


「うわっ!」


観光客だか旅行客だか分からないが荷物をたくさん持った一群に襲われ、その一瞬に2人を見失った。 ふくよかな体のおばちゃんが笑いながら謝るが、耳に入らない。とにかく一群を掻き分け、2人を探すが見つからない。
近くにあったエレベーターが2階に向かっている所だったから急いでボタンを押す。2基あるエレベーターのうち、1基は2階へと上っており、もう1基は3階あたりで止まっている。
苛々と降りてこないエレベーターを待っていると、後ろからぽんと肩を叩かれた。


「東雲?」


聞き覚えのある声にばっと振り向くと森野がいた。
ついてないなと思いながらも引きつった笑いを浮かべる。


「こんな所で会うなんて偶然だな。東雲も買い物か?」
「え、ああ」
「2階に?」
「うん」
「そりゃまた偶然だな。俺も2階に用があったんだ。一緒に行ってもいいか?」


丁度そこへエレベーターが下りてきて、断る機会をなくした。こんな事なら階段で行くべきだったと後悔したがもう遅い。 定員が12名程の広いエレベーターに乗り2階を押す。
一瞬の浮遊感の後にすぐに2階につく。
エレベーターの前で待っている数人の客を押しどけて2人の姿を探す。後ろから森野がすいませんと謝りながら追いかけてきた。
拓けた所に出て右も左も、前も後ろさえもきょろきょろとくまなく探すが2人の姿は見当たらなかった。


「東雲ってば、どうしたんだよ」
「…なんでもない」
「そんなに急がなくても商品は逃げないって」


笑いを取ろうと森野がボケるが、それにツッコんでる暇なんかない。
2人を見つけようと必死なのにその姿が影すらも見えない。俺の中から蘇芳が消えてしまったような虚無感に襲われ座り込んでしまいそうになる。 それを森野が支えてくれた。俺の肩を掴まえて緩く揺さぶる。


「おい、東雲。気分でも悪いのか?」


森野が顔を覗き込んでくる。
そこへ――――。


「夾っ!?」


ざわつくショッピングモールのホールに、叫ぶような声が響く。
首を巡らせて右手の方を見れば、驚いた表情の蘇芳がいた。側にはにっこりと笑った篠宮が腕を絡ませている。


「あら、東雲くんじゃない。こんな所まで買い物?」


白々しく篠宮が言う。
焚き付けたのは誰だよ、という言葉を飲み込んで蘇芳の手に握られている包みに注目した。 俺とはぐれた時にでも購入したのか、薄い青色の包装紙に包まれた細長い箱がその手に握られている。


「夾、こんな所でなにしてるんだ?」
「なにって…買い物くらいどこでしてもいいだろ」
「あ、ああ、そうだな」


くすっとわざとらしい笑いが聞こえる。


「行きましょう、蘇芳くん。東雲くんは森野くんと買い物に来ただけみたいだし、私たちはもう帰りましょうよ」


蘇芳の腕を引っ張って、エレベーターの方へ向かおうとしている。
美人の篠宮に名前を覚えられていた森野は嬉しそうに顔を綻ばせようとしているが、どうもそんな雰囲気じゃないと見事に察したのか、その頬はぴくぴくと痙攣している。 蘇芳は俺たち2人をなんとも形容し難い表情で見つめていて、俺はというと篠宮の腕が絡みついた蘇芳の腕と包みとを交互に眺めている。
その視線に気付いたのかすぐさま篠宮の腕を引き剥がし、俺に手を伸ばした。
けれどその手が触れる前に、俺は思わず叩き落としていた。


「……っ、触るな!」
「夾!!」


叩かれた蘇芳の手の甲がほんの少し赤くなっている。
目尻に溜まった涙を見られたくなくて俯く。叩いた自分の手が痛いが、それよりも心がもっと痛かった。


「蘇芳こそ、こんな所まで買い物?」
「え、ああ、うん……」


歯切れ悪い返事をする蘇芳の代わりに答えたのは、いまだに蘇芳の腕に己の腕を絡ませようとしている篠宮だ。


「プレゼントを選びに来たのよ。どんな物を選んでいいのか分からないから、私に尋ねて来たの。ね、これって立派なデートよね?」
「はぁ?」


最後の部分は、蘇芳の耳元に唇を寄せて囁くように尋ねている。その後に続いたのは吊り上がり気味で疑問を表すかのような蘇芳の声だ。


「プレ、ゼント?」
「そうよ。フランスにいるお兄さんに贈るプレゼント」
「なに、言ってるんだ?蘇芳にお兄さんなんていないよ…いるはずがない。蘇芳は1人っ子のはずだ」
「それこそ嘘よ。私、蘇芳くんから聞いたもの。フランスに年の離れたお兄さんがいるって。ね、蘇芳くん、いるわよね―――?」


篠宮が息を飲み込んだ音が聞こえる。
タイミング的に篠宮が蘇芳を仰ぎ見た瞬間だろう。けれど俯いていた俺にはなにがあったのかなんて俺には分からなかった。 森野が「ありゃ?」という声をあげて吃驚している様子は見える。


「うそ、なの?」
「……」
「ま、待って、待ってよ!ねぇ、どういう事!?そのプレゼント、まさか……」


どうやら蘇芳に兄がいるという事は嘘らしい。
けれどそんな嘘まで吐いて篠宮とデートしたかったのだろうかと思うと、もう駄目だった。必死に耐えていた涙がぽたっとフロアに落ちていった。 その事に気付いたのは森野だけだった。蘇芳と篠宮は少し離れた所で話し合っている。きっと蘇芳が篠宮に謝っている事だろう。
いくつもの雫がフロアに落ちていっては小さな水溜りを造りだしている。 歩みを止めたまま立ち止まっている俺たち4人を周囲の買い物客が不審な目で見るが、誰も声を掛けようとはしない。
急に体をぐいっと引き寄せられたかと思うと、森野の肩に寄りかかるように頭を押し付けられていた。


「森野……?」
「しっ、黙っとけって」


森野の、お洒落に決めた服を汚してしまっては申し訳ないと思ってしまった俺は懸命に涙を止めようと努力する。 けれど耳に入ってくる、遠い蘇芳の声に涙腺は緩むばかりだ。


――もう、終わり…?


脳裏を過ぎる最悪の展開を打ち破るように、森野の場にそぐわない明るい声が響いた。


「蘇芳くーん。俺、夾預かるからね。君はそっちの彼女ときちんと話し合って来いよ。ちゃんとケリをつけないと――――俺が君から夾を奪っちゃうよ?」
「おい、どういう事だよ。それに俺の名前…」
「東雲は黙っててって言っただろ。それに、”夾”って呼んだって減るもんじゃないだろ」


因みに最後の俺と森野の会話はこそこそとだ。
森野の肩口に顔を埋めたままの俺には詳しい状況は分からないけど、篠宮と蘇芳の会話が一旦中止になった事だけは分かった。 蘇芳が「おいっ!」と怒鳴る声が聞こえたから。
それを無視するように森野が俺の肩を抱いたまま歩き出した。もちろん、肩口に顔を押し付けたままだと歩きづらいから、俺は俯いたままだ。 もう涙は出てこなくなったけど、泣いてましたって丸分かりの赤い目のままじゃ恥かしかったからだ。


「……行きつけの店とか、お気に入りの店とかあるか?」


エレベーターで1階まで降りて気温差のある外に出た時、森野がそう訊いてきた。


「ないけど。なんで?」
「知ってる店なら蘇芳がすぐにでも飛んでくるから。あいつには少し痛い目見てもらわないと」
「なんで?」
「あー、もうっ!!なんで分からないんだよ、この分からず屋!」
「なっ、失礼な!!」
「失礼でもなんでもねぇよ、ったく。……じゃあ、俺の行きつけの喫茶店にでも行くか」


そう言って唐突に右手を上げた。すぐさまタクシーが横付けされた。
あぁ、なんだタクシーか、とほっと胸を撫で下ろす。ほんの一瞬、どっかに頭でも打ってしまったのか?と勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。


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