雨の中 02




都会の夜明けは遅いなんて誰かが言ってたけど、そんなの嘘だ。
僕が開けたカーテンは再び引かれ、その隙間から顔を出して東の空を染め始めた太陽が顔を覗かせている。
いっそあの太陽のように誰にも邪魔されることなく、自由に宇宙に在(あ)れたら…と思うのに、 そう思っている僕はまるで犬のように四つん這いにさせられて、曝したくない部分を先輩に向けている。


「あぁ…っは……やぁ」


自分の口から出ているとは到底思えない甘えたような高い声が、後ろから聞こえる濡れた音に重なる。
既に上半身を支える腕の力は残っておらず、枕に埋めるように泣き腫らした顔を押し付けている。


「嫌?ここ、こんなになってるのに?」
「―――っ」


くっと喉の奥で笑う先輩からは、迷っていた僕を案内してくれた優しげな雰囲気は窺えず、なりを潜めていた獣が姿を現したかのように獰猛に僕の体を嬲っていく。


「ンく!は、せんぱっ…」


もうやめて欲しいのに、こんな扱いでも先輩に触れられて感じる僕はどこかおかしいのだろうか。
先輩も僕があまり嫌がっていない事に気付いたらしく、指を増やして中でくいっと曲げた。


「ああぁっ…やぁ」
「さすが遊んでるだけはあるな。………なぁ、ここに何人咥えたんだ?」


中に入った3本の指をばらばらに動かしながら、優しげな声で耳に吐息を吹き込む。
けれど僕には意味がわからないし、キスだって小さい頃に母さんとしたのだけだ。
そう伝えたいのに口から漏れるのは高い喘ぎ声ばかりで、首を振る事しかできない。
なのに……。


「ジュンジョーぶるのも、演技ってわけかよ」
「ちがっ…ぁ……」


指が引き抜かれて、擦られた所から走る甘い疼きに思わず声を上げていた。すーすーして物足りなさにひくつくそこにすぐに熱いものが触れた。
それがぐっと中に入ってくる。


「あ――――ッッ」


体中が発熱したみたいに熱くなって、体の至る所に熱を感じた。けれどやっぱり1番熱いのは奥の方で、僕のお尻と先輩の腰が当たっているのがわかる。 だから、後ろを見ずとも僕に……いや、僕たち2人の身になにが起こっているかなど火を見るよりも明らかだった。
それから何度も体位を変えて体を繋げて貪り尽くされるように欲を吐き出され、また僕も吐き出した。 途中からの記憶が曖昧なのはきっと、先輩のことがまだ好きだからこんな先輩は見たくないと脳が拒絶したんだと思う。
気付いた時は太陽が中天に差し掛かっていて、僕の体も綺麗に清められていた。
ほっといてくれても良かったのに、と思う。
あんな風に抱くほど僕の事が嫌いなら穢れたままの体をほっといて、部屋から追い出せばいいのに、と。
ぼんやりと虚ろな視線を宙に投げ掛けていた僕は、のろのろと起き上がって床に散らばっていた服を掻き集めて順に着ていく。
リビングの方からがさがさと音がするから、きっとまだ先輩は家にいるんだろう。
なるべく音を立てないように扉を開けたのに、運悪く先輩に見つかってしまった。


「…………」
「ぼ、僕、帰ります。お邪魔、しました」


すぐに視線を伏せて、先輩の脇を通って玄関へと向かおうとした。けれど数時間前のように再び先輩に掴まれてしまった。


「――っ」
「あ、悪い」


途端にあの行為が頭の中にフラッシュバックして、びくりと体を竦める。
がたがたと震える体に鞭打って先輩を無視して靴を履いた。 震える指がなかなか言う事を聞いてくれなくて靴を履くのに手間取ったけれど、なんとか履き終えた僕はすぐに扉を開いて外に出た。
ちらりと視界の隅に映る先輩がなにか言ってるのを聞いたような気がしたけれど、気のせいだと思う事にした。


『もしかして、初めてだったのか?』


なんて、聞こえたような気もしたけれど、いまさら初めてだったと首肯(しゅこう)してもアニメのように 数時間前に戻れるわけでもないしもう2度と先輩にも会わないと決めたから、ぱたんと扉が閉じたと同時に僕はエレベーターへ向かって歩き出した。
あんなに酷い事をされても多分僕は先輩が好きだ。けれど、きっと先輩は僕の事をなんとも思っていないだろうし、 抱いたのだって「抱きたかったから」の一言で済まされそうだったから、傷つきたくないと願う僕の弱い心が「会わなければいい」という結論を出した。
サークルは同じだけど学科も学年も違う僕と先輩は、サークル以外では接点がない。だからサークルだってもう辞めるつもりだった。
大学の入り口がよく見えるカフェテリアで先輩を見るのも辞める。だって、女の人と歩いている先輩を見たくないからだ。
僕の初恋は終わった――――。






僕の住む地域は先週から梅雨入りしていて、ここ1週間まともに晴れた事がない。 陽が昇っていても、狐の嫁入りのように雨が降っていて僕の心を映す鏡のように泣き腫らしている。
先輩と会わないようにしてから3日経った。その3日で僕は少ない体重をさらに減らした。といっても別にダイエットしてるわけじゃない。 女の子じゃないし体重に気をつけているわけじゃないけれど、食べ物を見ても食欲が湧かなかった。
父さんや母さんが塞ぎがちになる僕を見て心配そうに顔を見合わせて溜息を吐くが、胃が受け付けないんだから仕方がない。
今日も母さんが作った弁当を持ってきてはいるが、なかなか箸を進めようとしない僕に焦れた透夜がひょいとおかずを摘まんで僕の口元に押し付けた。


「ん、食え」
「透夜……」
「ほら、口開けろ」
「でも…」
「お袋さんに悪いと思わないのかよ。せっかく作ってもらってんだから」


そう言われると無碍(むげ)に出来なくて、仕方なく口を開く。けれど味がよく分からなくて困ったように眉根を寄せた。


「なぁ、お前まじで変だぜ」
「そう?」
「ああ。―――春野先輩の家に泊まった日から」


びくりと肩が震えた。
確信に迫った透夜がずいと身を乗り出して、周りに聞き耳を立てている人がいないか確かめて真剣な瞳で僕を見つめた。


「先輩と会えて喜んでたじゃないか。……まさか先輩になにかされたとか?」


途端に険を帯びた透夜の口調に慌てて首を振る。


「ち、違うっ!先輩とはなにもないよ」
「ほんとか?ならサークル辞めた理由はなんだよ」
「別に、深い理由はないよ。飽きたからじゃないかな…」


ふいっと透夜から視線を逸らせて言っても、これじゃあなにかあったと自ら暴露しているようなものだ。
透夜がもう1度僕の名前を呼ぼうとしたけれど、その声に重なるように名を呼ばれた。


「一樹っ!」


焦ったような声に僕は信じられない思いとともに振り返った。


「先輩?」
「あ、春野先輩!こっちです」
「透夜!?」


僕の名前を呼んだものの僕がどこにいるのか分からないらしい先輩は、食堂の入り口に立って右往左往している。そんな先輩に透夜が手を振って合図した。


「俺が呼んだんだ」
「な、んで?」
「先輩が一樹と話したがっていたし、お前も先輩と話した方がいいだろうと思って。俺、お前のせいで勘違いされたんだぜ」
「え―――?」
「一樹…」


透夜の言葉を聞き返そうとしたけど、その前に先輩が僕たちのテーブルへと近づいてきて優しい声で僕の名前を紡いだ。
「この席、使っていいですから」とにんまりと笑顔を浮かべた透夜が先輩に席を譲り、少し居心地悪そうな先輩がその席に座った。
透夜は、定食の乗ったトレーを持って別の席へと移ろうとしていた。


「え、透夜、どこ行くの?」
「ばからしい話は聞かない事に決めたから、一樹とは遠く離れた席で1人でメシ食ってるわ」
「いいから、一樹…」


こんな場面で1人にしないでよという意味も込めて縋るように透夜に視線を投げるけれども、 透夜はどこ吹く風で鼻歌でも歌いそうな軽やかな足取りで僕らの前から去って行こうとする。追いかけようとする僕を捕まえて、先輩が座るように促した。
数分、僕も先輩も喋ろうとせず無意味に時間だけが過ぎて行く。


「あの、話がないんなら僕はこれで……」
「待てっ、……っ、ごめん」


先輩の怒声にひっと息を飲んだ僕の後に、先輩が慌てて頭を下げた。


「え?」
「その、あの日の、ことだよ」


言いにくそうに口篭る先輩の言わんとする所を察知した。


「別に…気にしてませんから」


じゃあこれで、と弁当箱を包み直した僕は早々に席を立とうとした。
気にしてない、といいつつも本当は別の意味で気にしていた。なんで先輩がそういう事に気を使うか、だ。
普通嫌っている人に後日わざわざ頭を下げたりするだろうか。
もう先輩の事が分からなくて、頭の中がごちゃごちゃだ。
なのにまだ先輩の事が―――。


「好きなんだ」


―――そう、まだ先輩の事が……。


「え?」


よく聞き取れなかった、というよりも僕の脳が勝手に先輩の言葉を変換してしまったんじゃないかと一瞬疑ってしまった。
顔を上げた先にはうっすらと顔を染めた先輩がいた。


「好きって、あの…?」
「そのまんまの意味だよ。一樹が好きなんだ」


嘘だ。先輩は嘘を吐いている。
だって僕の事を嫌いだからこそ、あんなことをしたんだ。
先輩が僕の事を好きだなんて……。


「う…」
「嘘じゃないからな。からかってもいない」


僕の考えを見越したように先輩が先手を打つ。


「好き………?」
「ああ」
「なんで?」
「ああ?」
「なんで、僕なの?好きならどうしてあんなことしたんですか……?」


今度は先輩が息を飲む番だった。
背凭れに背を預けて、腿 の上で組んだ指をじっと見つめている。
僕の心臓は壊れたメトロノームのように僕の意思を踏み外して勝手に早鐘を打っている。「まさか、そんな」って思いの方が強いからだろうか。


「あの時のことは本当に悪いと思ってるんだ。少し動揺してしまって…」
「動揺?」
「ああ。あの時、一樹が彼女はいないのかって聞いたから」


それがどういう意味かわからなくて首を捻った。
確かに先輩に彼女はいないんですか?と聞いた覚えはあるが、それが動揺する理由なのだろうか。あの時、先輩は僕の質問に明らかに不機嫌になっていたはずだ。


「好きなやつに彼女はいないのかって聞かれたら、『彼女作らないのか』って聞かれてるのと同じだと思うだろうが。 まして一樹は男だし俺みたいなやつに言い寄られるのは迷惑だろうとか考えると動揺してさ」
「先輩って、動揺したら不機嫌になるタイプなんですか?」


それなら合致する。


「不機嫌?いや……うん、そうかもしれないな。それで動揺してるうちに一樹が帰りだそうとしたから慌てて、その、犯ったっていうか……あんなに震えてたのに止まらなくて、 傷つけるような言葉まで言って……ほんと、ごめんっ」
「せ、先輩っ!!」


土下座しそうな勢いで頭を下げる先輩に、食堂中の視線を集めた僕は冷や汗を掻きながら先輩を宥めた。
これは自惚れでもなんでもなく、本当に先輩は僕の事が好きだと受け取ってもいいのだろうか。


「先輩、僕、もう気にしてませんから」
「一樹……」
「それに……」


これ以上食堂中の視線を集めるのはご免だと、先輩の耳元で小さな僕の気持ちを伝えた。
反応を返すどころか固まってしまった先輩に、喧騒で掻き消されたのだろうかと危惧したけれども、一瞬遅れて先輩が真っ赤に染まった。


「ほんとかっ!?」
「うわっ!!」


先輩が僕の肩を掴んで自分の所に引き寄せたので前につんのめってしまった僕は変な声をあげてしまい、それがさらに視線を集めてしまった。


――ほんと、食堂で僕と先輩を引き合わせた透夜を恨んでしまいそうだ。


けれど、その透夜のおかげでこうして僕は先輩と想い合えた事だしと、にこにこと頬が緩んでしまった。後で透夜になにか奢ってやらないと。
その笑顔のまま、先輩に顔を向けて思いっきり頷いてあげた。
それから――――。


「大好きっ」






梅雨時の空はまだまだ晴れそうにないけれど、僕の心の中はとても澄んでいる。
先輩がいればきっと毎日晴れマークだ。


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